ヨガでは息を止めることをクムバクといいますが、あまり日常で使うことは少ないのです。
そもそも息を止める時はどんなときでしょうか。緊張したとき、我慢するときくらいでしょう。しかし大切な作業の時息を止めるのです。それは飲食をするときです。それは飲食物が気管に入らないようにするためです。ただこれらはヨガで言うクムバクとは言いません。ただ息を止めているだけです。
ところで赤ちゃんはおっぱいを飲むとき息を止めないで鼻から息を吸いながら飲んでいます。我が家の犬は息をつかずにがつがつと長時間食べているのは鼻で息をしているからでしょう。人がビールやジュースを飲む時はごくごくと飲みます。このごくごくは息を止めるからごくごくとなります。赤ちゃんは喉が未発達なので息をしながらおっぱいを飲めるし、犬は喉の構造が違うから口と鼻は別々に使用が可能なのです。
だから赤ちゃんは喉が未発達の間は赤ちゃん語しか話せないし、人以外の動物はチンパンジーのような高等動物でもいくら言葉の訓練をしても言葉を話すことはできないのです。それは喉の構造が違うのです。犬やネコが鳴くのは気管が普段は鼻腔に近づいているのですが、そのときだけいったん下がって口から息を出して、ワンとかニャーゴとか音を出しているのです。彼らは息を吐いている時だけ気管が下がるからまず喉つまりがしません。彼らの食べ物は気管の周り、横を通って食道に入ります。犬はよく喉を詰まらしますが、それは食道の入り口なので、窒息はしません。しかし人は息を止めるのを忘れて飲み込むと気管に入り窒息という事故が待っていますから大変です。
このように飲食の時に息を止めないと飲み込めないという、不便になった原因は人が足で立ったことにあるそうです。進化の過程で喉が下がって鼻腔と離れてしまい、のどの奥には食道と気管という、二つのパイプが現れてしまいました。それでは困るというので、飲み込むとき、気管の方を上に上げて息を止め、食道に送るようにしたのです。当然その作業は無意識の反射で起こるのようにしましたが、間違って気管に入る可能性だってあるのです。またまた食べている時にくしゃみなどしようなら鼻から食べ物が出てくる始末です。(新・人体の矛盾参照)
全くヨガの話しになりませんでした。ヨガは雑学ですからいつか発声法や、呼吸法につながるかもしれません。後日、期待してください。
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<http://www.hat.hi-ho.ne.jp/kboy/fig-throat.htmから抜粋>
「うんちく・小ネタ」カテゴリーアーカイブ
コブラのポーズの再考
普段、デスクワークや立ち仕事をしている人、と考えるとほとんどの人に当てはまりますが、背中が硬く、肩こり腰痛にならなくても、腰が硬くなっているのに気がつきます。それも年齢にを重ねるに従って、そりポーズ、特にコブラのポーズがぎこちなく、いつの間にか敬遠してしまいます。
ここでお勧めなのが、赤ちゃんの這い這いはいかがでしょう。真似をするのでなく、ホントーに赤ちゃんになってハイハイするのです。頭のいい大人は単に手足を交互に動かすだけしかしませんが、これではだめです。7ヶ月くらいの赤ちゃん、立つ少し前なら動きがかなり速いはずです。
腹ばいになって、何か獲物(Iおもちゃなど)を見つけたらなら、ぐいっと頭を上げ、それを目指していちもくさんです。目を固定して、手、ひじ、足、膝を使ってかなりのスピードで動きます。このころの赤ちゃんは目が離せないくらいです。そういう這い這いをするのです。
そんな気持ちで、動きを作ると5歩で十分ですから、かなり首、肩、腰が緩むはずです。どうぞコブラのポーズを作ってみてください。
いつまでも若く保つために、頭は無理としても、体だけはやれば改善できます。なぜ頭はダメかというと、あまりにも癖習慣がしみ込んでいるからです。体は若いころ、赤ちゃんであったころのの記憶が残っています。這い這いなんて簡単です。それも狭い部屋でも5歩、いや3歩でも上手にすれば(イメージだけでもいいのかもしれません)うまくいきます。写真なし。
体が硬い人のためのヨガ・・・本の出版
おかげをもちまして、本当におかげをもちまして「体の硬い人のためのヨガ」の本の出版にいたりました。本当にご縁を感じる1年弱でした。昨年晩秋に縁あり、たくさんの出版社様を紹介していただき、縁あり、企画書を作ってもらい、出版社様からお話をいただき、実らず、またいただきを繰り返し、現実になりつつも、信じられぬまま、作業に入り、雪解けからゴールデンウィークにかけて、新規執筆、だめ直し、校正を繰り返し、写真を700枚撮り、ポーズの線画を書き、支離滅裂の文章に自己嫌悪に落ち入り、締め切り間に合わずレッスンをさぼり、思い違いをしたり、言い訳をしたりエトセトラ。そしてたくさんの支援のもとで完成した本です。
出版されてからもばたばたは続きます。おめでとうと言って20冊、10冊と注文をいただくのです。ありがたくせっせと荷造りです。本が200冊届いたその日に100冊出てしまい、4ヵ日目に出版社に追加注文です。これとてあまりもちそうにありません。楽しみにされている水・木曜日の受講生の皆さんは2週間も手に入らない方も出てきました。本当に申し訳ありません。まだまだ申し訳ないことはサインです。はじめは練習してないからパスと断ってきましたがその内、大胆にもボールペンでサインし始めました。それもえらそうに格言付きで。だれかにサインペンぐらい用意したらとアドバイス。そうなんだ、サインはサインペンなんだよなと初めて気がつく始末。まだサインペンは買っていません。至らぬところばかりすみません。
浮かれてばかりいられない昨今です。学院での企画もがんばらなければ。そして協会のお仕事もたくさん秋に向かって目白押しです。
ところでイラストの写真はかわいいお姉さんに仕上がっていますが、実はポーズはすべて私の写真をイラスト化したそうです。どうりでだめポーズは真に迫っていると思いました。
我が住宅近辺に熊が出没
驚きました。電信柱にヒグマの糞が発見された、立ち入り禁止、という張り紙があちこちに、また区役所からチラシが配られてきました。我が家の先の山は羊ヶ丘展望台、自衛隊の演習地を経て支笏湖、洞爺湖に続く原生林に続いています。今まで熊が出るなんて聞いたことありません。私は好んで近くの山に入り、どこに出て、そしてどこへ続くのか興味本位で歩き回っていましたが、熊が出る山だと思いもしませんでした。
ずっと以前に支笏湖にある恵庭岳に登ったことがありました。ここでははっきりと動物園のケモノの匂いと同じで熊の気配を感じ、寒気を感じながら下山をし、こんな恐ろしい思いで山に登るのならやめたと、それ以来山登りをしていません。
家の近くでは山に近いせいか、狐や狸はよく見ます。彼らはゴミをあさりに住宅街をさまよいます。見方によればかわいいものです。近所のある人はカラスと一緒に餌付けさえしているようです。周りの人はかんかんに怒っています。熊も山中で食糧難で生活しづらくなったのでしょうか。そういえば、庭にあるグミも姫リンゴも実を付けていません。
高校生の頃に読んだ西丸震哉(食生態学者、探検家)の「山の博物誌」にヒグマとツキノワグマの違いを書いていました。ツキノワグマは人を敵として見て逃げるが、ヒグマはえさと見るそうです。今はそんなこと無くヒグマだって音で逃げるそうですがそのくらい習性が違うと恐ろしくなります。彼は熊と出会ったら死ぬまねは意味がない、逃げろと言います。上りも下りもめっぽう足は速いし、木登りも上手だといいます。弱点と言えばフトコロで、そこに飛び込めと、その後は知らんと書いてありました。
熊の事件は北海道ではたくさんあります。大正初期の頃留萌地方の苫前町の開拓村、三ヶ別で村人が7人殺され、妊婦含めて3人が食べられる事件があり、その熊をしとめたのが銀次郎という猟師であることを本で読んだことがあります。生前の義母はその銀次郎を知っていると三ヶ別事件の話しを懐かしく話してくれました。
というわけでしばらくは近隣の西岡公園のキャンプ場も熊騒動が落ち着くまで、閉鎖だそうです。
月の礼拝体操
ヨガのカリキュラムで太陽礼拝体操はあまりにもポピュラーです。あるグループはこの体操しかしないそうです。それだけ瞑想に打ち込んでいるのでしょう。
私が初めて習ったのは、合掌礼拝体操と名うっていました。師は癖や習慣、思いこみを見直し、より新しい考えで社会を見ていくことで進化向上が生まれるのだと説きました。そして、既成概念を打破することに集中して、ポーズの名前もことごとく独創的でした。今私たちが使っている名前と大きく違うのは、犬のポーズを山のポーズといい、三角のポーズを釣針のポーズ、肩立ちのポーズを逆さかだちのポーズと言っていました。その真意はサンスクリットや欧米思想から離れた日本独自のヨガを伝えたかったのでしょう。
話は変わります。わが師のヨガは月の礼拝の名称はありませんでした。私はこれを知ってからなぜか、太陽礼拝以上に好きになっています。理由は体がつながる実感が得られること、ポーズ一つ一つが意識しやすいこと、体の変化が大きくなること、呼吸のリズムが取りやすいことです。ゆったりと満月を思い出しながら、新月、三日月を思い出しながら繰り返すのです。
太陽があらゆる生き物に照らしている一様な空間があるとしたら、月は照らされている限局の空間を主張するマイナーな存在なのです。(小池龍之介氏講話から) ある時は暗闇を作りいつもは光を放っていないあてにならない存在だけれどその隠れた恩恵に静かに感謝する存在が月なのです。
月の礼拝体操を続けていくと心も体も自然と一体化していきます。そう意味で学院で好んで繰り返しています。太陽礼拝体操も月の礼拝体操もラジオ体操とおもむきが異なります。師は動きを禅にする、動きのみに集中する、動きが自然と一体になるような効率を求めていく動き、これを動禅と言いました。これは立派な瞑想になるのです。心のためのポーズを作ることを目指しなさいとよく言われました。
下のイラストはmi.soさんの作品です。学院のためにたくさんのイラストを書いていただきました。
学習すること
地下街の広告の写真です。別に某新聞の回し者ではありません。いろいろな講演会に参加したり、本を読んでいて、すごい人がいるものだ、どうしてそんなことに気がついたのかと感心することがよくあります。
「自分の意見は他人の意見を・・・・」の文字が目に入ってきたとき、そうだ、そうだと変に感心してしまいました。よく講演会等で私のオリジナルですという考えをとうとうと述べる人がいますが、やっぱり眉唾だとわかります。どこかにネタがあるはずです。普通はこのネタに感謝して、誰それ先生の考えを参考にして自分はこのように考えるようになりましたと言えばその人の謙虚さが見られるのです。書籍にしてもたくさんの引用があればあるほど、著者の博識が見え隠れてしてきます。
ところで私のヨガのポーズは決してラジオ体操形式のように機械的に動かしているのではありません。感覚をもとにして動きを学習する事が大切だと説く、イスラエル人、モーシェ・フェルデンクライスの書物に学び、それをヨガに応用しました。彼はその動きや考えはまた柔道から学んだと言います。彼は独特のメソッドで体の動かし方を世界中に広めました。彼は動きの中で感じること、比べること、つながることの大切さを説きました。そして人にとって学ぶということは生に対する喜びだと言います。動物でも小さい頃はいたずら好きです。これは好奇心が旺盛なためです。好奇心こそが学習していくエネルギーです。
年齢に関係なく人の話しをしっかり聞く、本を読む、音楽や絵画、博物館など情報を採取することが大切です。共感や感動したならば、それだけ自分が豊かになり、さまざまなところから得た無数の考えが自分の考えを作っていくのだろうと思います。
今年もサボテンの花が咲きました
水天宮って
東京地下鉄の駅名です。はじめは単にそう思っていました。東京に出かけるとき、泊るホテルへいくときは茅場町を利用していました。地理感覚は全くなく、夜にホテルに入る時、200メートルの距離をタクシーを使ったこともあります。最近利用する地下鉄を変えてみました。水天宮という駅の利用です。何回か使っていて、水天宮という社(やしろ)が見え、好奇心で中に入っていくと子供連れの家族が多いのに驚きました。なんと子宝に恵まれますようとか安産を願う御宮さんだったのです。調べてみたらこのたぐいの御宮さんは全国にありました。子供連れが多いのはそのお礼なのかもしれません。こま犬の人形がたくさん飾っていました。このような風景を見ると何か昔ながら神を信じ、神を祈る姿勢に心うたれます。そういえば京都にある北野神社は受験生がわらをもつかむ気持ちでお参りするところでした。今週の学院のカリキュラムは「月の礼拝」です。単なる連続ポーズですが生きる日常から祈りを主とする生かされていることを実感するひとときです。
断捨離ってなに?
先日の合宿の時に講師が断捨離という言葉を発せられ、当学院の受講生がそれを聞いて後日、あの「だんしゃり」ってなんですか、と聞いてきました。
その講師は「断捨離のすすめ」という本がよく売れている、あの本は整理整頓する方法を仏教の言葉で上手に本の書名にしたものだ、ヨガの中でプラティヤハラという段階があるが心の執着をとるために断捨離が必要だ、という内容でした。
私の身の回りには物にしろ、情報にしろ溢れています。ほっとくと物であれば「ゴミ屋敷」になるし情報であれば「自称評論家」になりひいてはノイローゼーになってしまいます。中村天風師の本を読むと、インドのヨガ部落で修業しているときに「文明人の理屈の多い頭をからっぽにしないければ何を教えても無駄だ」と言われるところがあります。映画「アバター」の中でも自然の中で生きている惑星人が地球人に向かって「頭をからっぽにしなければ自然の神から何も教えを得ることはできない」というような場面がありました。
私たちの生活は物欲、名誉欲、金欲、欲、欲ときりがありません。この欲のコントロールをするのがプラティヤハラ(制感自律訓練行法)です。詳しくは当学院hpに少しだけ書きました。
http://www.mizunoyoga.com/gakuin/q23.htm#l121
ところでヨガのポーズを作っているときに、できない、痛いは日常茶飯事ですが、できるときには突然できると様々なところでのべています。工夫と努力は当然大切ですが、痛みを我慢するという、とらわれや、ポーズを作ろうという気持ちが執着が欲につながってきているのです。頭をからっぽにしてただその場その場を感覚を受け入れていくしぐさこそがポーズであり、そのようなときになると瞑想になっていきます。そしてそのようなときに、こちらから思い追い求めていた対象が向こうからやってくるのです。求めているものを断つ、捨てる、離れるという断捨離は言葉で言えるほど簡単なことではありません。断捨離という思いこそが欲になってしまうのです。
それで数年前面白い体験をしました。我が家のリフォームの際です。家を片づけなければなりませんのでいらないものを捨てているとこの捨てるという作業が楽しくなってきました。来週の大型ごみの日に向かって、毎日小さな家の中を探索しています。何か捨てるものないか、いらない、いらないを繰り返し身軽になったわが持ち物に満足していました。ところがリフォームも終わり数年経ちました。また物が増え始めてきました。あれほどすっきりしていた家の中も見苦しくなってきました。これを見ても捨てるというのは癖です。またため込むというのも癖です。身一つで雲水のごとく、インドのサドゥのごとく生きることが一番の幸せかもしれません。
マズロー欲求階層説から抜粋
出典絵葉書
頼先生のアサナ指導
先日の登別合宿研修会の際に台湾ヨガ会の事務長「頼玉秋」先生のアサナ指導がありました。流れるような動きです。見ているだけでは何の変哲もないアサナですがこの一部の動きをしただけで、驚きの結果が生まれました。
まず私自身ですが、この後、前後開脚のポーズ、いわゆるハヌマーンアサナを行いました。私はこのポーズは不得手です。普段は痛い、伸びない、尻が落ちない、体全体が緊張に包まれます。しかしこの時は違いました。なんのストレスもなく、足は開きます。しっかりと胸の前で合掌できます。手を上に上げることもできます。140人の内の部屋の一角は私への拍手に包まれました。すごいすごい、瞬間です。今までのあの痛さは錯覚だったのか。体の条件が満たされると瞬間に可能になる事実の再現です。少しずつできるようになるのではなく、突然にできるのです。
それは合宿後、数日を経て教室で再現してみました。私のクラスは体の固い人ばかりです。教室は壁が少ないので二人組を作り、背中を借りて同じ動作を行います。そして開脚前屈のポーズを挑戦しました。10数人中90%の人が格段とポーズが進歩していました。腰がしっかり入っているのです。
いつも言っていることですが、腰を緩めるポイントはそけい部を締めること、胸を開くことであることがよくわかりました。そして動きの中で腸骨を回転するように行うことが大切です。この回転という動作は締めて緩めてという複雑な動き、協調が必要な動きでもあります。
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