人が生まれ、生きて、そして死ぬ

年始の年賀状を書く際に喪中はがきが多いことに気がつきます。ひと家族に連名の不幸のあることも。そこに至るドラマも様々でしょう。「人が生まれ、生きて、そして死ぬ」というプロセスは諸行無常ともオームとも言います。
「生まれた者には死が必ず来る。死せるものは必ずまた生きる。避けられぬことを嘆くなかれ」(ヒンドゥー教聖典「バガヴァッド・ギーター」より)宗教の世界でも人生に達観した人もただそれだけとも言います。いかに生きるかの難しさもありますが、いかに死ぬかも、自らコントロールできないところに不安もありお任せの境地でもあります。
ある新聞に長寿時代の定めを思う老人医療の専門家、フレディ松川著の「フレディの遺言」がありました。介護や認知症などの現実とそれを少しでも予防ができる勘所が書かれているそうです。興味のある人は読んでください。それで思い出したのが鈴木秀子著「死にゆく者からの言葉」がありました。帯には「死の直前に<訪れる仲良しの時間>に人は何を語ってゆくのか」この本も年末年始に再度読んでみようと思います。

面白・広告

今朝の某新聞全面広告です。
なんか面白いので掲載しました。
機械の摩擦を減らす会社としてNSK(日本精工株式会社)とありました。


マサツ
スキってなんだろう→ メールだと平気なのに→ 会うとぜんぜんしゃべれなくて→ でも並んで歩いているのはうれしくて→ この人でいいのかなとか→ 嘘つかない人だよねとか→ また考えてたら→ 突然手をにぎられて→ びっくりして→ 汗かいてないか気になって→ 見つめられ→ えっウソ→ ヤバイどうしよう→ わたしいま変な顔しているかも→ めちゃくちゃ興奮して→ 本当に心臓の音が聞こえて→ でもカクゴ決め→ 目を閉じて→
イケ マサツ ヲ オソレズニ→

親鸞さんのことば

所用があって京都へ行きました。なにげなく歩いていたらかの有名な(全国に高校があるので)大谷大学の門に出会いました。たぶんこれは裏門でしょう。写真のような掲示がしてありました。なるほど、生きるのに必死だった親鸞聖人のことばのようです。当然は私は聖人のことは何も知りません。信者でもありません。卒業生でもありません。でも丹羽文雄の「親鸞」を読んで感銘を受けました。僧侶としてはじめて堂々と妻帯した人です。生活の中に、そして庶民に宗教を教えた人です。お寺は要らない、仏像もいらない、ただ「南無阿弥陀仏」という名号だけで良いと生涯、寺は持たず越後、関東、そして京都と流布したそうです。

ちなみに歎異抄は親鸞の口伝で自分の実子を破門させなければならなかった頃の心中を述べているそうです。師の言いつけにそむき、独断専行する実子を勘当する親鸞、そしてこの世の嘆きを憂う一節がこの標語なのです。