沖ヨガとは何か。

先日、静岡県御殿場(時の栖ときのすみか)で全国から沖ヨガ関係者が集う、国際キャンプが2泊3日で開催されました。
長崎、北海道他全国・そして台湾からと総勢120名が参加し高齢者も90歳近い方も若い人と同じように瞑想や講演や強い動きも盛りだくさんの沖ヨガ行法を行いました。

時代が変わり、今では沖ヨガとはと、説明しなくてならない時代になってしまいました。沖正弘先生が創始され、日本文化を取り入れた沖ヨガは日本国内で文化センターなどで40年前にいっせいを風靡しました。しかし、今では横文字のヨガがずいぶん多くなり、沖ヨガをきちんと説明する必要が出てきました。

沖先生の説かれたヨガはただポーズを作って柔らかくするとか呼吸法や瞑想をするという単純なものでなく、「生命即神」、「求道ヨガぐどう」「総合ヨガ」「生活ヨガ」をめざしています。

以上のところを明快に説明があったのは今回の龍村先生の講座でした。龍村先生は沖正弘先生の古くからの研修生で沖先生亡き後、長く沖ヨガ道場の道場長を勤められました。今では沖ヨガを伝えることのできる一人者と言えるでしょう。 続きを読む

協会合宿岩沼にて

今年も沖ヨガ協会主催の合宿が開催され、3.11の被災地、宮城県岩沼市で行われました。企画当初は震災2年目でまだまだ合宿ができる状況ではないのではと不安もありましたが「現地へ行こう」の合い言葉で役員が頻繁に足を運んで状況を把握し、現地の方々の協力も得て開催ができました。会場は岩沼駅に近い小山の中の抜群の景色の良い「モンタナリゾート」です。
 参加者は震災直後の幕張、1年目の琵琶湖湖畔よりも多いのは驚きでした。そして何よりも若い世代の参加者が増えたことはうれしい限りです。

 合宿の中身は協会からの報告がありますので、ここでは私が唯一、担当した岩沼市周辺のヨガ愛好者に集まっていただきボランティア活動の研修内容を報告します。合宿期間は2泊3日。最後の日は朝から参加者は仮設住宅でマッサージや治療、簡単なヨガ、指ヨガなどのボランティアグループと被災地を慰問するグループにわかれてホテルから出発していきました。たくさんの合宿参加者がいきなりポツンと私一人が残されたのは心細いものです。

 図のようなパンフがありそのテーマで進めようと15分くらいたった頃、なんとなくもぞもぞする人が多く、雰囲気が変なので、「今腰が痛い人?」と聞いたら7割がた手をあげます。ヨガ合宿なのでそれにふさわしい話しを半分くらいする予定が急遽、腰痛治療教室に変更することにしました。
 一番重傷の若い男性(彼だけで後は中高年の参加者でした。)をモデルになってもらって、腸骨の内側のマッサージ、痛いことはいっさい行わないこと、軽くて楽な動きがいい動きを大原則にして、二人組になって片足ずつの割り座、同時にうなじの伸展、うつぶせで片足を持たれて逃げる動作で腰の伸展、そしてコブラのポーズ、橋のポーズ。最後にうなじの周りのマッサージで終えました。ふーう。ところでその青年に大丈夫ですかと聞いたらかなり良いというので、もとの場所に走って戻ってくださいと言うと猛ダッシュで戻りました。70人くらいの参加者から彼に拍手です。
 今回のような精神的な状況が腰を痛くするのは当地の特別な環境だから仕方がないとしても、痛さを自分で解消するのが一番いいことです。腰の痛みは精神的な状況が首に現れ、首が特に原因になりますから、座っている姿勢、立つ姿勢などで首を緊張させないことが大切です。笑うような状況でないかもしれませんが、笑うことが心身を変えてくれるのはまちがいありません。
 私たちが学んでいる沖ヨガは生活ヨガです。環境、状況は変えられないかもしれませんが、自分の感情・行動は変えられます。どうぞ希望をご自分で探し、力強く前に進んでいきましょうと結びました。
記念写真を撮りましたが現地から送ってきましたらこのブログに掲載したいと思います。
 こちらの授業が終わる頃には仮設住宅ボランティア組が戻ってきて、やりがいがあった、たくさん来てくれた、とそれぞれ各自で勝手に報告会でした。
今回の合宿は私たちの内輪だけの学びでなく、地域の方々との協力や交わりで有意義な学びをさせていただきました。
 最後に帰りのバス中で事務局から北海道までもって帰ってほしいと頼まれた「生きている宗教」(この本は沖先生の一番最後の10年の構想のをかけた書籍です。)10冊が重いのでこの場で買ってほしいとアナウンスするとなんと完売してしてしまいました。心優しい方達のおかげで荷物はグンと軽くなり家路につきました。

団塊の同窓会

先日、たくさんの用事をかねて高校の同窓会に参加しました。私の卒業した高校は京都・大徳寺、今宮神社に接しています。団塊の世代ですから55人13クラス、約700人の同期生でした。卒業してから44年になります。この写真の参加者は130人くらいです。よくも集まりました。高校3年間で2回のクラス替えがあっても、気軽に当時の思いを伝えられるのは10人くらいです。全く知らない人もいます。ほとんど覚えていない人に、あのときこうだった、こんなことした、こんなことも言ったよと言われても覚えているわけありません。ところであなた誰?と一生懸命記憶を辿りますがわかったふりしておきました。非日常な時間が過ぎていき、だれ彼となく話し込み1次会2次会はあっという間に終わりました。次回は4年後だそうです。そのときまで生き残れるかサバイバルの4年間です。Dannkaipawa

駅前十街区

札幌駅と大通りを結ぶ地下道を「チカホ」といいます。東日本大震災のあった翌日に開通しました。札幌市の中心街、ススキノ、大通り、札幌駅が地下道で結ばれたことになります。すすきの大通り間がポールタウンと言って地下街に対してこのチカホは「地下歩道空間」と呼ばれ、地下街が補助金なしに対して国予算が少しだけ入っているとのことです。私の友人から講釈されました。
そのチカホは市民のバザーのような催しが道路両脇で連日にぎわっています。通行量も外は吹雪というのに通行人が多いというのは大きな恩恵です。私も9番のエレベーターで教室まで行くのに便利になりました。まず信号待ちをしなくてもいいのです。傘をささなくてもいい。吹雪のときは最高です。
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そのにぎわいのチカホの隅にひっそりとフリーペーパがおいてありました。写真がそうです。ここを毎日利用していてこのチカホ界隈を「駅前十街区(とがいく)」と言うそうですが知りませんでした。駅前は意味が分かるのですが、十街区の意味が分かりません。この冊子の中をじっくりみてなるほど駅前通りの左右のブロックを数えたら10あるので十街区だそうです。我が教室もこの中に入っています。
パラパラとめくっていくと、日頃お世話になっているお店がたくさん出ています。それになによりも驚いたのは、1ヶ月前に経営セミナーに参加したときの講師が一面に出ているのでした。大変バイタリティでイケメンで博学でもっともっとお近づきになりたい、この業界では著名な先生です。
何はともあれ、この地区でヨガ教室を開いて今年で27年目。まだまだお世話になる十街区です。

イタリア単独行4

フォロ・ロマーノの隣りにあるのは、コロッセウム。古代ローマ市民の最大の楽しみはここで行われる決闘試合です。専門の剣闘士も存在して、互いに闘い合わせたり、虎やライオンと闘うこともありました。主催者は皇帝です。皇帝は独裁者ではなくて市民の信望を得ることが何よりも大事なことでした。
このコロッセウムには地下室があります。ここに猛獣や、剣闘士の待機場所でありました。そしてここにはエレベーターもあったそうです。
又世襲制ではない、皇帝は市民のために自費で公共事業の建物や土木事業も行なわなければなりませんでした。この皇帝のために市民は歩兵となり、ガリヤ(フランス)、ライン川近くの辺境に赴く義務がありました。
ローマ軍団はとにかく強い。それは家族や出世のために一致団結する力があるのです。又、土木工事がやたらに発達しているのは、フォロ・ロマーノを見ても現代人もおどろくほどです。戦争につきものの道路を作る、橋をかける、攻略施設をつくれるのもローマ軍の強さでした。特にその中でユリウス・カエサルは全ガイア地方の部族を敵に相手に戦闘を続け、全ガリアを属州とします。その時の戦闘や地理、文化人類学にも似た詳細な「」ガリア戦記」を書いてガリアの特徴を記述しているそうです。
またこの当時ブリタリアにも2回上陸ます。その後の帝政ローマになって一時的に属州になりました。
ローマ軍団の兵士は怪我をして戦地にとどまったり、敵地の女性とねんごろになって、たいていは略奪ですが、その地に居座る兵士が多かったそうです。このようにして西ヨーロッパはローマ化されて行きました。
最近の映画、テルマエロマエは浴場をテーマにしたコミックの映画化ですが、これは最大の領土を広げたトラヤヌス帝の時の後の、ハドリアヌス帝のときになっています。ローマ市街には太平の世の中が続いていたと思われます。
しかし、このローマ帝国とて、諸行無常です。もっと強くて数の多い蛮族ゲルマンの南下やキリスト教の影響で衰退していきました。
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イタリア単独行3

イタリア訪問の一番の目的は[「ローマです。」(フッと映画ローマの休日の王女の最後の言葉を思い出しました。)その地は「フォロ・ロマーノ」。古代ローマの帝国になる前から存在していたBC700年以上前に建国されたローマ共和国の遺跡を見るためです。釈迦牟尼仏陀が現れたのはBC500年ですから、もっと前です。日本で言えば聖徳太子の時代がAD500年ですから、その遥かむかしに、巨大な建造物が造られようとしていました。ユリウスカエサルの時代がBC100頃だからそのもっとむかしに元老院という統治組織も建造物も存在していました。
その古代ローマに憧れ、カエサルに憧れたのはこのブログでも登場した「塩野七生・ローマ人物語」です。(そうそう花嫁の略奪婚に成功した話しをしました。)西ヨーロッパに文化の種を撒いたのもユリウスカエサル。遠くイギリスまで遠征しています。そしてライン川を超えましたが蛮族中の蛮族が住むことの地からの防衛に苦労しました。
その少し前はカルタゴ武将ハンニバルによるローマ侵略、スキピオによるカルタゴ消滅、その地を不毛にするために塩をまいたというのも、そのくらい苦しめられたのでしょう。この辺はうろ覚えです。
クレオパトラも無視できません。ユリウスカエサルに自分を差し出して古代エジプト、プトレオマイオス朝を守ろうとしました。その子供はユリウスカエサルの跡を継いだ初代ローマ皇帝アウグスツヌスに殺されました。当然と言えば当然。日本の戦国時代は皆やっています。
よこみちに行き過ぎました。
そのフォロ・ロマーノは古代ローマ時代の遺跡のことを言います。その遺跡は現在も発掘中です。たくさんの人が工事人のように古代ローマの遺跡を元に戻す作業をしていました。というのはローマ帝国はキリスト教の影響下に入り、古代の神像をエルベ川に投げ捨てられたり、帝国が二分され、西ローマ帝国が滅亡するとこのフォロ・ロマーノのあたりは、なんと牧草地になっていたそうです。それなら遺跡は土の中に眠っていただけですが、ルネッサンス期になると文明復興ですから、その遺跡の品々を加工してほかのものに作り替えられたりしてフォロ・ロマーノの辺りはめちゃくちゃになってしました。復元は難しいそうです。記念館には、胴体のない神像や、顔だけの像がたくさん並べてありました。それでもフォロ・ロマーノを今私たちに見せてくれているのは、その時代の以下にローマ人が土木や建造物に長けていたかを見せてくれる遺跡群です。2000年以上前の古代都市の様子を見せてくれ、そして数々の歴史上の場面を復元してくれています。
私は今回残念ながら丸一日しかローマ滞在をしていないので、世界中から来ている観光客と一緒に、コロセウムとこのフォロ・ロマーノを見るのが精一杯でした。まあ二度と来れないでしょう、このローマを明日発ちます。なんか家族を京都見物に連れて行ったような気分です。ほんのさわりだけでしたが、ここからまた私の中でロマンが広がっていくでしょう。
アウグスツヌスの生家
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イタリア単独行2

今日はヨーロッパサッカー選手権決勝の日です。テレビで見ていましたが、イタリア、スペイン戦はイタリア負けました。試合前のローマ、ポポロ広場を通ったところです。警察がものものしいです。たくさんの人が若者、子供、家族連れがたくさん集まっていました。終わった今も外は車のクラクションで騒がしい。

さて、ミラノを後にした旅人はベネチアに行きました。世界中から集まる観光客には驚きます。一応京都観光の案内役を引き受けていますが、比ではありません。この人の多さは以後に続く、フィレンツェ、ローマも同じくです。
ベネチアはテレビでもよく出る風景です。そのよく出る風景を写真に撮りました。サンマルコ広場が中心で、行きは船、帰りは歩きです。どうも行きの船は無賃乗車をしたみたいです。1回7ユーロ(観光客だけ高い)のところ途中下車させられて乗り継いだのです。歩きは不安でしたが、地図を見ながら、また標識を見ながら、「ここはどこ」と聞きながら元の地点に戻りました。私の時計は磁石になるのでこれからの日程でも大活躍します。

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次の日はフィレンツェです。荷物をデポして地図とカメラもって近場をうろつきます。デポは山言葉でも使いますね。このデポする山行はめちゃくちゃ辛い経験があります。何せ重いザックを担いでいるときはゆっくりと規則正しく休憩を入れるですが、そのザックをデポして、軽装で出かけるときは山の中を走るがごとく目的達成、そう単に行った、というだけの行動になります。今度もそんな感じです。今回も地図を見ながら、大きな建物、人がたくさんいるところを目指して行って、写真を撮る作業です。どこへ行ったかは後で調べてみます。
しかし、歴史ある都市をぶらついていると、もう一度じっくり世界史を勉強したくなります。地域ごとの歴史が大きな力に翻弄され、またその大きな力もうねりのように変わって行くのを現代から見ると面白いと思います。そしてその様々な外国の人たちを見ていると、外からの民族の血が少ない日本人、東洋人と征服を主とした文化を持っている西欧、小アジアの人たちの外観や記念館の派手さが目につきます。衣装もタットゥも男性の筋肉質や体のでかさも、女性の胸の大きさも、建物の大きさもはっきりとした違いを感じます。力を見せつけ、状況の適性能力が発揮されるのでしょうか。

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イタリア単独行

オランダ、イタリアのヨガ合宿、研修セミナーを終えて、イタリア単独行が始まりました。もう知り合いはいません。今まで、ミラノで大変お世話になった方の見送りを最後にベニスに着きました。人が多い、暑い、道に迷うで少しばて気味です。しかし6月はまだブログをアップしていないことに気がつきました。思考力も不足していますががんばって制作します。
一人になって、むかしもこんな心境になったことを思い出します。3,40年前に山をよく登ったことがありました。チームを組んだ遠征パターンから単独行に移った時期も不安がいっぱいでした。目標を定めて行動しますが、怪我や遭難に備えて準備もしました。途中で何度も引き返すことを考えながらの行動でした。
月日が移り、歳を重ねると安泰な日々が続きます。いや、その中でも試行錯誤の不安感、挫折は多くありましたが、まあなんとか今までやってきました。
年金をもらうような年代になり安定思考が漂う中、何を考えていたのかヨガ研修のあとの一人旅を企画しました。ほんの軽い気持ちです。言葉大丈夫?と自問します。新聞記事に英語なんか話せなくてもいいと言うのを見て、変に納得し、体力も気力も過信して計画だけが進んでいきました。
そういうわけで今、ベニスのサンタルチア駅そばのホテルにいます。明日はフレンツェに行きます。昨日までミラノの知人たちが集まって、イタリア旅行の心得を伝授され、脅かしが山ほど続きました。泥棒、スリ、恐喝、何でもありがイタリア。盗みのプロはグループあり、子供あり、美女集団あり、股間に手を伸ばしがありのイタリアだと言います。用心はするのですがどうなることでしょうね。まあ。これも楽しまないことには前に進みません。
そうそう、イタリアは英語表記がどこにもないのですね。そしてほとんど通じない。まあ私の英語は英語じゃないからどちみち通じないけれど。初めての水の購入、トイレの借り方、レストランへ行って注文の取り方、まあまあ初めてのことばかりです。(初めてじゃないです、台湾やその他の地域でもやっていました。)道を聞くのは日本でもやっているので自信はありますが、同じように教える人によって適当です。最低3回くらいは聞かないと目的地に行けません。私の場合は目的地じゃなくて帰る道がわからなくなるのです。
さあ、明日からまたがんばって、見聞を広げよう。数十年前の自然を相手の単独行から異文化を相手の単独行、何とかなるでしょう。今までもそうなんだっただよな。ものすごい莫大な感動がこちらにはあるのです。写真やテレビで見るのとは全く違います。
仮想体験から実体験、これがすごいことなのです。イメージ練習から本番での行動、この行動がまた深〜いイメージ練習につながります。これからの写真やテレビを見る見方が変わってきますね。
下の写真はミラノ ドウモという教会です。詳しくは後で調べます。度肝を抜くような建物です。中もすごい。キリスト教文化とはこれまたすごい。

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琵琶湖合宿

私の出身校、沖ヨガ道場の教えを後世に残すためのNPO沖ヨガ協会の定期合宿が琵琶湖湖畔でありました。
JR唐崎下車のKKRホテルびわこは景色もいいし、食事も抜群でした。ベジタリアン用と普通食を希望者毎にかえてもらったのは細やかなサービスです。
 私にとって、琵琶湖は小さい頃、町内会からバスで真野というところで海水浴に行った思い出のある場所です。当時は海よりも琵琶湖で泳ぐことがほとんどで、ここで泳ぎを覚えた場所でもあります。子供の頃ですから大きな海のような存在でした。水もきっときれいだったと思います。
しかし今回は南の端の方でもあり、対岸のネオンがしっかり見えたりしてだいぶ、印象は違います。
しかし景観は写真のように抜群でした。
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唐崎神社で朝の行法です。気持ちのいい日曜日が始まります。この神社は近江八景の一つになっていて、ここの松が金沢の兼六園に一部移したとのことです。美しい女性が近江富士を腕の間にはさんで二人ポーズです。絵になっています。この女性たち、実は孫がいる・・との噂です。へーぇ・・
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さて今回合宿のメインゲストは「高野孝子」さん。文化人類学者で世界の民族の生活を研究されています。また各国の研究者と一緒に北極圏を横断したりする探検家でもあります。彼女は「生きること」をテーマに20歳前後の青少年を未開の土地に連れて行って生きることの基本を教える合宿活動もされています。
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彼女の講義録を一部紹介したいと思います。
 生きることに直結した暮らし
 人として必要なことは自然が全部教えてくれる
 土地とのつながりを取り戻す試み
 大切なことってだっけ
 幸せって何だろう
 学校ではしばられたせいかつをしているけれど、雪山で解放された
 いつもの生活が、どれだけ裕福で幸せなかを知りました
 1日目緊張で話せなかったけれど、やっているうちに話せるようになってよかったなぁ 
   復興とはどこへ向かうことなのか、人が生き
   るとはどういうことなのか。よくわからなく
   なっていました。しかしヤップにはそれこそ
   人が「生きる」現場がありました。無いことを
   憂いて、なにかによって幸せになるのではな
   く、知恵を出し、手をかけることでかぎられた
   ものから豊かな暮らしを抽出するような・・そ
   のプロセスの中で心も身体も動き出して、
   人が本能的に持っている躍動感を楽しめて
   いるような気がしました。逆に言うと、近代
   的な生活は、その喜びを奪っているんだ
   なぁ、という感覚も感じました。
Takano
前列左端、私はカメラマン。

赤レンガ庁舎訪問

天皇陛下のご病気お見舞いに北海道庁(赤レンガ庁舎・旧本庁舎)へ記帳に行きました。ここは24年前、昭和天皇ご崩御にお悔やみの記帳をした時、以来の場所です。
天皇陛下は順調に回復されている報道もあり、記帳所は閑散としていました。ついでにと滅多に入ることのない庁内を見学しました。ここはもう記念館としてのみ使用とのことで、その西側に現在の庁舎が地下2階、12階の建物がそびえています。
明治21年築とのことで、今は北海道の歴史記念文書などが陳列してありました。このブログで紹介した松浦武四郎の大きな肖像がクラーク博士と共に絵画として陳列されていました。
今、札幌は180万都市として栄えていますが100年前までは未開の土地だったのは感慨深いです。
写真は琴似に入植した屯田兵、作られた当時の赤レンガの絵、クラーク博士の島松駅舎での別れ、松浦武四郎の絵はこの下にアイヌの人たちの絵があります。そして現在の赤レンガ庁舎です。
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