世の中は広く繋がっている

沖先生の講義や書物の中でとらわれ、執着という言葉が何回も出てきます。そしてそれは道元禅師の正法眼蔵に書いてあるとのことでした。これは沖先生でなくても、仏教を少し勉強すればわかることですが、前から「正法眼蔵」には興味がありました。しかし難解で文庫本で全4巻という大作には手が出せません。
それで「正法眼蔵随聞記」というお弟子さんが書いたものなら読めるかと一部を手に入れました。そしたらこれもまた難解です。しかし前に般若心経の用語解説を試みたことがあり、諸行無常や諸法無我、涅槃寂静は聞いたことがあります。ということで、とりあえず、諸法無我について調べました。手強いですがまあまあついていけそうです。
この学びを少し続けてみようと思います。
このブログにも「般若心経について」(https://mizunoyoga.com/blog/?p=1302)「般若心経訳してみた」https://mizunoyoga.com/blog/?p=1749などがあります。
また鴨長明の方丈記や平家物語はここでは割愛して他の資料を参照してください。

なお「正法眼蔵」は(しょうぼうげんぞう)と読みます。正法とは正しい修行のやり方という意味です。有名な言葉の一つとして「仏道をならふは自己をならふなり」「身心脱落」「只管打坐(しかんたざ)」があります。

いまはググるといってgoogleで調べても「AIによる概要」が出てきます。GeminiというAIでしょう。ここではChatGPTに慣れているのこれを採用します。Geminでも同じ用語を調べましたが、少し曖昧な部分があったものですから。。。(今はAIといってもChatGPT,Gemini,Claude,Llamaなどがあるそうで、それらが相互に調べあっているそうです。)





「高瀬舟」を読んだ。(青空文庫:無料で20分くらいで読めた。)森鴎外の作品である。理由は諸法無我の考え方があると上記の資料にあったからだ。
内容は高瀬舟は江戸時代、罪人を遠島に流すときに、京の高瀬川を舟に乗せて淀川を下り大阪から島流しをする風習があった。(高瀬川は鴨川の西の先斗町などの歓楽街を流れている角倉了以が江戸初期に造った運河である。)
高瀬舟に同心という役人が罪人を船に乗せていくのが決まりであった。しかし今回はその罪人がいつもと違う様子である。落ち着いて、時には喜びをどこかに漂っているように見えた。同心は不思議に思ってお前はどいういう罪で島流しの罪をおったのかなどそれとなく聞いた。兄を殺したというのだ。その兄は病弱で弟の自分に生活を見てもらいすまない、すまないといつも口癖のように言っていたという。その兄がこれ以上弟に迷惑をかけることができないと、喉にカミソリ(小刀)を当てたが、失敗して死にきれず、喉のところに刺さったままになって苦しんでいた。それを仕事から帰った自分が見つけ、助けようとしたが、そのカミソリを取ってくれたら、この苦しみがなくなると言われ、苦しんでいる兄の喉にあるカミソリを取ってやると出血多量で死んだ。それを近所の人に見つかり兄殺しにされたという。
考えてみれば、自分の人生は辛くて何もいいことがなくて、仕事もきつくて、お金をもらっても右から左へと蓄えも何にもない。それが罪を犯してみると、仕事をしなくてもご飯が食べられる。そして島に流される時に支度金とまとまった金が支払われる。こんなありがたいことはない。自分の人生の中で有り難さに満ち溢れた心境であるという。
同心はこの話を聞いて、自分はどうなのか。嫁は同心の給料以上の生活を望み、毎日生きていることが地獄のようである。
有ることの不都合と、無いことの幸せをこの物語で対比した。
諸法無我は自分という自己を否定したところに喜びが得られ、執着や苦しみから解放される。この罪人のように何も無くなった時、しがらみなどが全て無くなり、周りに感謝や感動が生まれたために、溌剌としているのはそのためである。結果的に生きていることの喜び、人を含めた他の存在と相互に依存し合うことを理解して、繋がっていることに幸せを感じ入っている。逆に執着があった時は自分を守るために孤独になってしまう。