昨日まで雨、雪、風と最悪でした。今日はぽかぽかの春日和です。といってもご覧の通りですが。
お隣のマロン君と久しぶりの対面です。室内犬なので人の話しはかなり理解できているようですが、まだ言葉を得ていません。直立を得ていないので声帯が発達していないのでしょう。彼らの仲間は皆、人のような言葉を持っていません。しかし人には無い、何かを持っているみたいです。時間も季節も天気もわかるみたいです。ある人は風と話しができ、木々や植物と話しができるといいます。それも何万キロと離れたところからでも理解し合っていたのです。前頭葉で理解する私たちには嘘のように聞こえます。体験したことが無いからです。彼らは人が生まれる前からそのように生活していたのでしょう。自然の中でただ、生を受け入れ、分かち合い、恵みに満足していたのでしょう。
ヨガのサマディは三昧とも悟りとも訳されています。それは「あるがまま受け入れる」ことによって生を満足するとあります。
投稿者「mizuno」のアーカイブ
おひなさん
教室に飾ってあるおひなさんです。出すのもかたずけるのも簡単で重宝しています。
ところで季節の節目を意識しない人が多いことに気がつきます。お正月は普通の日。旗日(祝日)も何の日かわからない人が多いです。冬至にかぼちゃと小豆を食べる、お正月明けには七草粥を食べる、節分もあります。それぞれが季節と密接に関係しているものです。すなわち、私たちはこの星に生かされている存在です。感謝を込めて儀式を行うのです。
これはストレス解消と大きく関係しているのです。何百年も続いた儀式がいつの間にか理性が生活を処理してしまっています。365日と24時間しか時間の感覚が無いのです。そして死んだらおしまいという人生観を作っています。たくさんのおかげで生かされていることに気がつかないのです。このことに気がつくとストレスは多少なりと軽くなるのです。自分ひとりでなんでもしょいこまないで神社やお寺や教会などでお参りしたらどうですか。ただお祈りをするのです。「もとこちら」の平井謙次先生によりますと、私たちは永遠に生きているそうです。
バレンタインのチョコもらった
またまた大雪
今日は東京へ行く日です。昨日から北海道方面は大雪です。空港が昨日から閉鎖されていると連絡がはいります。朝5時に起きて天気予報。これではだめです。一応11時半の飛行機に乗る予定で出かけます。空港まで行くバスも遅れ気味です。搭乗手続きが案の定できません。昨日からの予約者で空港はいっぱい。絶え間なくアナウンスがあります。大雪のため滑走路が使えません。ようやく1時になって搭乗手続き。しきりにアナウンスです。除雪しています。滑走路ののチェックをしています。乗務員が到着していません。飛行機が到着できません。除雪しています。機材が足りません。そのうちに前後の飛行機は欠航になりました。そしてやっと空は明るくなり吹雪はやみます。ようやく出発です。5時でした。あーあ、やれやれ。こんなの始めて! 年に数回あるそうですが。。
除雪と排雪
北海道の名物風景、排雪作業です。大きな道路では夜間にときどき、行われていますが、これは一冬に一回、町内の排雪作業風景です。雪が降ると道幅が狭くなります。除雪は雪が降るたびに大きな機械、小さな機械で頻繁に行われています。この除雪された雪も道路に溜められていくと、ますます道路は狭くなるのです。やはり取り除かなくてはなりません。この雪はどこへ行くかというと、冬の間だけ常設される大きな公園や豊平川、畑などに積まれていきます。この排雪作業、見ていて飽きないのです。流れ作業での連携は見事です。雪をダンプに積み込むのはロータリー車。ここまでに何台もの種類の違う除雪車が雪を氷を削り、帯状に溜めていくのです。そしてロータリー車です。
平安神宮
所用で京都へ行った。今年はまだ神社で年始をしていないので、平安神宮でお参りをした。神さんの本山はお伊勢さんに出雲神社、そして平安神宮もまあまあの格だと思っていたが歴史はきわめて浅いことが判明した。以下に説明文がある。「1895年(明治28年)3月15日に平安遷都1100年を記念して平安京遷都当時の天皇であった第50代桓武天皇を祀る神社として創建された。」だそうだ。いつも道民がお世話になっている北海道神宮とあまり変わらないのだ。しかし「平安」という言葉は好きである。「平和」でもないし「安心」でもない。ヨガのくつろぎのポーズのときもよく使っている。「あなたに平安がきますように」「平安な日々を楽しんでください。感謝してください」と。
カシコミカシコミで始まる祝詞は神さんとの会話であり生死を約束する人間社会の初期の生活すべてを表しているという。日本では古事記の中で神話が出てくるが、これがもっともっと奥が深いらしい。とても手に負えないとあきらめていた「白川静」が今ブームになり漢字の成り立ちは神との約束事が詳しく当時の人たちが神との会話が成り立っていたことを説明している。甲骨文字は神との駆け引き、証文だったらしい。それが日本に来て仮の文字、すなわち、かなになったと。野口三千三の体や動きの説明がいつも「白川静」を参考にしていた。読解力を身につけ、ヨガの授業に役立てたいと思う。
人が生まれ、生きて、そして死ぬ
年始の年賀状を書く際に喪中はがきが多いことに気がつきます。ひと家族に連名の不幸のあることも。そこに至るドラマも様々でしょう。「人が生まれ、生きて、そして死ぬ」というプロセスは諸行無常ともオームとも言います。
「生まれた者には死が必ず来る。死せるものは必ずまた生きる。避けられぬことを嘆くなかれ」(ヒンドゥー教聖典「バガヴァッド・ギーター」より)宗教の世界でも人生に達観した人もただそれだけとも言います。いかに生きるかの難しさもありますが、いかに死ぬかも、自らコントロールできないところに不安もありお任せの境地でもあります。
ある新聞に長寿時代の定めを思う老人医療の専門家、フレディ松川著の「フレディの遺言」がありました。介護や認知症などの現実とそれを少しでも予防ができる勘所が書かれているそうです。興味のある人は読んでください。それで思い出したのが鈴木秀子著「死にゆく者からの言葉」がありました。帯には「死の直前に<訪れる仲良しの時間>に人は何を語ってゆくのか」この本も年末年始に再度読んでみようと思います。
面白・広告
親鸞さんのことば
所用があって京都へ行きました。なにげなく歩いていたらかの有名な(全国に高校があるので)大谷大学の門に出会いました。たぶんこれは裏門でしょう。写真のような掲示がしてありました。なるほど、生きるのに必死だった親鸞聖人のことばのようです。当然は私は聖人のことは何も知りません。信者でもありません。卒業生でもありません。でも丹羽文雄の「親鸞」を読んで感銘を受けました。僧侶としてはじめて堂々と妻帯した人です。生活の中に、そして庶民に宗教を教えた人です。お寺は要らない、仏像もいらない、ただ「南無阿弥陀仏」という名号だけで良いと生涯、寺は持たず越後、関東、そして京都と流布したそうです。
ちなみに歎異抄は親鸞の口伝で自分の実子を破門させなければならなかった頃の心中を述べているそうです。師の言いつけにそむき、独断専行する実子を勘当する親鸞、そしてこの世の嘆きを憂う一節がこの標語なのです。
できそこないの男たち
穏やかでないタイトルです。福岡伸一著。彼は生命科学教授。男たちを非難しているわけではありません。なるほどと納得するばかり。生命の遺伝子がそのようになっていると説明しています。アリマキという虫は花や茎から栄養を取り、そして娘を産む、その娘はまた娘を産むという連続した営みだそうです。ところが季節が冬になると息子を産んで種の保存を図るといいます。娘から娘は同じ遺伝子です。地異転変には種の存続が弱いから男を産んで違う遺伝子を作るそうです。ようするに自分の種を残すために男を利用するのです。なるほど今は大企業でも昔は同族会社で、そこに異種の遺伝子を入れ続けて不況に強い組織になったのかと思います。生命の基本仕様(デフォルト)は女だそうです。染色体のXY(男)を選んだDNAはXX(女)の構造を少しずつ変えて男になります。当然生殖ーDNAの話です。作り変えることをカスタマイズといいますが命の都合のいいように男を作り変えているのです。デフォルトをカスタマイズしたのが男です。XYを作っている途中で失敗もあるそうです。それがニューハーフ。犯罪の裏に女ありというのも生命がさせているのです。主導権を握っているのは生物界を観ても、また世の女性群を見てもなるほどと思います。
生命とは何?という問いかけに「生命とは物でなくプロセス。自分自身を作っていく過程である」と偉い研究者が述べています。自分自身を作り続けていくのは細胞だがこの細胞を作ったのは生命というシステム自身だといいます。システムが自分を作り、増殖し、成長する、自己再生を行うのは全ての命が持っています。当たり前のように生物界では雌雄が対のように見えるがマクロの世界で見ると存続のためにシステムが雌♀女を作り、必要に応じて雄♂男を作ったのは億年という時間と必要な環境の下で生き延びるためのプロセスそのものがつくって行ったと言えましょう。