5月幕張で合宿がありました。台湾から新理事長が来日され、同じ沖ヨガを学ぶ同士として生活ヨガを発展させていきましょうと挨拶があり、彼の授業が始まりました。沢山のウォーミングアップをしましたが、それらも大変参考になるものでした。
張理事長はヨガをはじめて10年くらいしか経っていないが、毎日瞑想呼吸法そしてアサナの練習を毎朝2時間をかけて行ってきたと言います。アサナは心の静けさや心を強くするのに役に立つと説明しました。特に夜明け前のヨガの練習は霊性開発に最高の時間だとのことです。
以下の映像は音楽をいれずにそのまま流しています。全部で50分の映像で、大切なところもありましたが、割愛して3分10秒に縮めました。この太陽礼拝はこの映像を2回繰り返しています。そして次に違う動きに入っていきました。彼の細かいしぐさを参考にしてください。また、一つのポーズの時間も長いのですがこれが瞑想的なポイントだと思います。合間合間のリセットしているとことなども非常に参考になります。
そしてどんどん彼の動きがエスカレートしていきました。そのエスカレートした先は誰もついていけずに、アサナ鑑賞の時間になりました。
投稿者「mizuno」のアーカイブ
言い訳ー5分で出来るー
『こんにちは。M、Oと申します。今日、水野健二さんの「体が硬い人のためのヨガ Basic Lesson 」を購入しました。第2章のポーズを全部やると1時間以上かかりました。5分で出来ると書いてありましたが、どのようにやればいいのでしょうか?教えて下さい。お願いいたします。』
2011-3-25付けの掲示板に書き込みがありました。管理不足です。お詫びします。
『5分で出来る』と書いてあるというので再度、本をチェックしました。自分は書いた覚えがないのでおかしいと調べたら表紙扉裏に書いてありました。この扉の文書には以下の表現がありました。
「沖ヨガをベースに生みだした、一日5分で本格ヨガが身に付く方法を紹介。ありそうでなかった、待望の入門書」
これは出版社のコピーですが、ちまたではよく、「猿でもわかるパソコン」などとコピーしているのと同じです。まあ、猿がパソコンをいじれるわけないのでこれは眉唾ですが「5分で出来る」はよく理解してもらうと一日5分だけ一つのポーズの1セクション。これなら5分でできそうです。これを毎日行うことが大切です。そうすると必ず30回くらい、すなわち30日くらいすると他の時間を削ってでも10分となり30分となっていくこと間違いありません。<ポイントは1日5分です。>この5分は将来の自分を変えていく5分になります。「無駄するな、無理するな、続けろ」です。
先日会った台湾の張延禎さんのアクロバティックなアサナも毎朝2時間、10年の賜物なのです。どうぞ5分間、毎日チャレンジしてください。出版社のコピーは眉唾でありません。無駄なことを本格的に学ぶことで他の沖ヨガの書物も興味を持ってくださると思います。
ところでこの「体の硬い人のためのヨガ」本は未だ1年足らずで21,000部増刷されました。そして先日、中国語に訳して海外で売るという契約書にもサインをしました。
皆様のお陰です。これからもよろしくお願いします。
バッタのポーズの作り方
研究会では「動きのつながり」をテーマにしました。担当者は山が好きで岩を登るときは岩にしがみついては危険であり、岩から体を離して、手足が自由に動くことが大切である。そして梯子を登るように、赤ちゃんが這い這いをするようにリズミカルに手と足を使って登っていく。もう少しでホールドできるようなところで、手を伸ばすときは手を見ない方が楽に伸びる時もある。ヨガのポーズと同じようにスポーツをするときの要領もつながりを重視すると楽に安全に、無理から来るけが防止にもなることを説明しました。
そしてグループを作って数種類のポーズを楽にする方法など討論をし、各グループの発表会を行い、私のグループはバッタのポーズです。いきなりバッタのポーズを作るとかなり体に無理がかかり、腰や肩を痛めるのですが、下記の流れで6割形の完成ポーズを繰り返し動きを作っていくと最後のフルポーズのバッタのポーズは気持ちが良くて、大きく足が上がりました。
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超・体の硬い人のために
体の硬い人のパターンは大体わかっているのですが、極端な人もいるのです。先日、同時にそんな人が、同じクラスに来られました。お一人はマラソンが大好きだけれど、膝が壊れて、一番好きなマラソンができないと嘆きます。あとのお一人は首おかしくて、いつも吐き気を感じるとのことです。ヨガは治療ではないのですが姿勢を良くしましょうと、姿勢を良くする動きを勧めました。
お二人ともまず床に座れない、膝を曲げて座ることも足を開いて座ることも、まったく不能です。困りました。座る姿勢をするだけで体はがちがちに緊張しています。ちょうど下にあるイラストのようでした。
まず、緊張をとることが大切ですから、手を後ろにおいて手で体をささえると背中は緊張しません。背中を丸くすると筋肉が硬くなって後ろへ後ろへ傾くのですから、手の支えは背中が緩むまで、そのままにして胸をそっと出していきます。まずは背中の緊張をとるためにこれだけでいいのです。5分くらいするつもりでいましょう。
次に前屈ができるように補助をつけながら行ってみました。まずお互いが向かいあって両手をお互い手首を持って後ろに倒れます。背中を伸ばすように心がけます。次に硬い人の後ろの補助の人は座り、同じように背中を伸ばすために、前に倒れていきます。
そして最後の仕上げは壁にもたれてもいいのですが、ここでは補助の人にもたれてみましょう。
これだけ行うと背中の緊張はすっかり緩み、しっかりとお尻、坐骨で体を支えることができるし、前屈のポーズもそれなりにできるのではと思います。
先のおふたか方は膝が痛くなくてしっかり正座も長座(足を伸ばして座る)もできるし、首の変な方は背が伸び胸が開いて気持ちがいいと評価してくれました。
幕張で合宿
今回の合宿は震災の影響を大きく受け、開催を危ぶまれましたが、規模こそ例年ではありませんが、100名を超える方々の参加いただき、内容の充実した研修を行いました。
台湾からも新理事長 張延梃先生、元理事長 楊増江先生他3名が参加をされました。
今回東京近辺で行うことでもあり、はじめて沖ヨガに接する参加者もありましたので沖ヨガ道場を意識したカリキュラムがいくつかありました。
三好先生の強化法では道場の一日の流れの中でこの行法の意味、精神性などの説明として生命力を高める具体的行法であるとして実習で汗を流しました。インドヨガと根本的に異なる総合ヨガとしての特色はこの強化法が代表的なものでした。
大阪枚方市で「かたの健康会館」を主宰されている珠数先生は今協会の役員をしている団塊の世代の一回り上の先輩です。日本で行われた’79国際総合ヨガ世界大会(1ヶ月間50カ国15,000人参加)の実行委員長でもありました。今回はメイン講師の一人として、修正体操の基礎から学びました。先生の最近出された「心も体も楽になる」の著作を例に出しながら、心の癖、体の癖を意識的に修正することの大切さを説かれました。
張延梃先生のアサナは独自にアサナの訓練をされ、アクロバティックなポーズが続きましたが、それは10年を超える毎朝2時間のアサナ訓練の賜物です。そのアサナからは瞑想的な雰囲気があり、単なる体操ではないことがはっきり見受けられます。私たち受講生には張式太陽礼拝体操を行いました。日本人で先生のところで定期的に修行をされている武藤さんという女性がデモンストレーションなどしてくれました。あとで彼女と話すと先生のアサナはひとつひとつがとても長いとのことでした。これも心を大切にしている訓練法と理解しました。(カメラ故障のため写真なし)
さて今、物にあふれている家の中で片付けをテーマにした「断捨離」がベストセラーになっています。その著者のやましたひでこさんの二日にわたり4時間の講演です。やましたさんは元沖ヨガ修道場の外部教室ヨガアシスタントでした。結婚してヨガをやめ主婦をしているときに沖先生のヨガの喜びの中にある「断捨離」が−こころと同じように家の片付けができるといいね−と言ったとたんにひらめいて、物の断捨離をテーマに講習会を始めたそうです。やましたさんの講義は沖先生の心の講義同じでした。今を大切にする、いつか役立つかもしれない物は雑念でいらない物です。退出してもらいましょう。そして人の心配をするよりも今の自分が輝いていますかを説明されました。物に例えれば高かった物や人にもらったもの、全く見向きしないもの、これも退出してもらいましょう。そして沖ヨガ特有の「治さない治しかた、教えない教えかた」と同じように「片付けない片付けかた」は心がそのようになると努力しなくても片付いてしまうのですと説かれました。
龍村先生の断捨離行法の講演は沖先生の修行時代の話しやこの断捨離の言葉をはじめて知ったのは「ヨガ行法哲学」の中で心身が麻痺しないように慣れてしまっていることを断つのだという箇所であったと断食断心を例に出して説明されました。また今やミリオンセラーの続いている「ヨガの喜び」は沖先生の原稿を龍村先生が2日間のホテル缶詰で出来上がった本であることを話されました。やました先生とのアシスタント時代の思い出や沖先生の言動が一見非合理に見えることが深い愛であり、理解できない人は不満を抱き、あとになって気がつかせる能力は沖先生のとらわれていない断心の無執着の実践なのだと述べられました。
今年もさくらが咲きました
北海道のロマン
知人から「骨鬼(くい)の末裔」という本を借りて読んだ。面白くて再度読み返す予定であったところ、教室で山好きのKさんにその話しをしたところ、読みたいと熱望された。その場には所有者の知人も同席し、そんなに面白かったら「あげましょう」と言われ、Kさんに渡したのだが、それからヨガの授業は著者の「新谷暁生」の雑談で時間を大幅に遅れてしまった。著者と懇意にしているという又別の人Iさんがいて著者の豪快さとカヤック、ニセコ、知床談義が始まり、話がつきそうもない。
そして本の内容に及ぶと又別のSさんがすごい、すごいと言って授業に戻れなくなってしまった。何がすごいというと13世紀末に中国のチンギスハンの流れを汲む元朝(げんちょう)の元冦(げんこう)が九州を襲ってこれが原因で鎌倉幕府が衰退するが同時にその頃、北のオホーツク千島を拠点とする民族が中国大陸のアムール川付近を侵略し元(げん)の人々に骨鬼(くい)と呼ばれて恐れられていたという話しが気に入ったというのだ。日本は元にやられっぱなしではなかったのだと大喜びしていた。
この本はニセコの雪崩事故防止方法の画期的なニセコ協定から知床の国による環境保護がかえって環境破壊につながっていくという自然観そして山で事故を起こしてはならない、北方民族の盛衰、アリュウシャンの民族、松前藩のアイヌを酷使した愚政策、差別はまた同時に日本人から差別されしまうシャモ(鶏ではない)の話し、アイヌとカイいう民族、北海道の開拓に大きな足跡を作った松浦武四郎・・・このように多岐にわたる内容は「新谷暁生」の人物の魅力そのものである。
数年前に網走に行ったときに1,000年以上前のモヨロ遺跡があるということでタクシーに乗って行った。土を盛った竪穴住居みたいであった。そのときオホーツクのたくましい民族のことが印象的であった。(2006年10月31日モヨロ遺跡 当ブログ参照)そのことも思い出した。
幕末のころ青森にあった松前藩のアイヌ差別、搾取や移住禁止などで統治能力がないことから幕府が蝦夷地を開拓に乗り出した。そのころから日本各地から本州から移住が盛んになり今の町や街が生まれてきたがそのためには蝦夷地を探査する必要があった。松浦武四郎は三重の松阪出身者で探検家、冒険家であった。はじめは個人的好奇心で松前藩の妨害を受けながら蝦夷地旅行であったが幕府から調査を命じられ、アイヌの人たちの協力を得ながら探検に成功した。彼はアイヌ民族の文化を保存して現在の北海道の地名などを命名している。
たとえば札幌はアイヌ語の「サッポロベツ」(乾いた大きな川)であったり知床は「シリエトゥク」(ちのはて)など、ほかにもそのままにアイヌの言葉を漢字に当てたりカタカナにしたりしている。そしてまた北海道に現在12支庁に行政区が分かれているがこれも松浦が民族や地勢の違いを調べ上げた区別した結果をそのまま使っているそうだ。
そういったことから松浦武四郎は北海道の開拓者であり名付け親でもある。彼の銅像は北海道内に50カ所以上に及ぶ。又名もない小さな町にも彼の銅像は建っているということだ。松浦は初め北海道を北加伊道と呼んでいた。それはこの大きな大地に数種類の民族がいることがわかり、オホーツクなど北の方はカイと呼ばれる人々がいた。著者の新谷はカイとクイ(骨鬼)には関連づける文献はないとしているが、言葉の音からから想像してしまう。明治政府は北加伊道を東海道などと関連づけて海という字に変えて今の「北海道」にしたそうである。
松浦武四郎、わたしも北海道で生かさせていただいて40年近くたつが何回もいろいろな所で銅像を見てきたが、そんな偉大な方とはつゆ知らず大変失礼なことをしてしまった。彼は明治政府になって開拓史となって送り込まれた役人と意見が合わず、元の三重、松阪に戻り、故郷の大台ケ原の探査探検にエネルギーを注いだという。
そういえば若い頃、台高山脈縦走(大台ケ原—高見山)をしたことがあるがそれは大変なきつい山行であった。台高山脈は三重県と奈良県を分ける標高1600メートル前後の山であるが上ったり下りたりの往復40キロを一日で走破したことを覚えている。当時はベースを途中においてほとんど空身で走るがごとく、ただ登ったという行動であった。ばてるものが続出し雨が降ってくる、動けない者どうするか、野営の準備もない。新谷暁生は山で絶対遭難してはいけないというがほとんど遭難しそうであった。私はというと偶然ポケットにカンロ飴(今でもある、あのまるっこいの)を食べていたからばてなかったのだろうと懐かしい思い出である。
遠い昔は征夷大将軍という官職で東国を支配する武将(坂上、源、徳川)がいた。榎本武揚が率いる「蝦夷共和国」の夢もあった。蝦夷地から北海道へ。今北海道は都会と自然が調和をとっているすばらしい土地である。これからも震災も含めて大きなうねりがあるかもしれないが日本国が北を頭にして、東京大阪を手足として発展する日がくるかもしれない。