免疫力強化_発声体操&笑い

今春に取材を受け、「北海道の病院 2023」に<発声体操&笑いのヨガ>が掲載されました。「笑う門には福来る」のいわれ通り、笑いの研究が進められ、免疫力強化が実証されています。

教室でも1分間の笑いをときどき行っています。クラスによっては毎回必ず行います。声を出すこと、腹に力が入り、長く息を吐き出すのでリラックスには最適です。また発声体操もアイウエオの音を体を使いながら、大きな声で行います。これも息が続く限り行うので腹筋強化、丹田強化にとても良い動きです。

大きな声を出すのにご近所さんに対して抵抗がある時は小さい声で大きく口を開けて、お腹に力を入れて行います。気分も爽快です。ぜひ日課に取り入れてください。

沖正弘師の著作「生き方の探求」

この沖先生の著作は「沖ヨガ修道場」で発行されていた月刊誌「求道実行」の初期のものと思われます。偶然入手しましたので、沖ヨガの真髄ともいうべき簡潔な教えが中に入っています。是非読んでいただきたいので、ここに載せたいと思います。

2008-12-10 親鸞

古いブログに親鸞のことを書きました。復刻版として掲載します。作者の丹羽文雄は浄土真宗のお寺の長男として生まれ、住職の傍ら数多くの作品を生み出しています。’230114

2008-12-10 親鸞
ヨガを学ぶにあたって仏教というものを少しは知りたいと思い、以前に読んだことのある丹羽文雄著、親鸞を読みかえしました。
以下の生涯の話は小説を前提にしています。しかし小説、作り話かもしれませんが著者が親鸞を通して生きることの意味、宗教観を述べていること、そしてその中から煩悩の考え方を知ることはヨガを別の角度から学ぶことになるでしょう。

親鸞は自らの苦悩をとおして念仏という手法を使い、師である法然の教えを広めました。はじめから、宗派の開祖になるつもりはなく布教する喜びを通して生きることの苦しみ、欲望を持つ自分と戦ったのです。僧侶として公然と妻帯し、普通の人が歩む道を庶民とともに悩み、嘆き歩んだのです。
そしてそれは、弱い人間が生きていくために只、仏の力のみを信ぜよと言う他力本願を勧めているのです。自力にいたらしめるそのものが仏の力だといいます。ヨガの世界で言えば仏の力とは生命力のことでしょうか。命の働きに素直になれと言うのでしょう。
当時の仏教は鎮護国家が目的であり、支配階級のみでした。宇治の平等院は藤原家のものであり、極楽浄土を願う親鸞と同じ阿弥陀如来を本尊にしています。しかし源信や法然とともに民衆への仏教に急速にこの浄土の教えは広まっていきました。それだけ生きるのが苦しかったのでしょう。後にこの宗派は一向宗、門徒宗となって全国津々浦々に広まっていきました。
煩悩や悟りといった文がたくさん出てきます。引用の数字の4-42は4巻42ページを表します。

木は、自分によって燃え上がる火によって、自分全体が火になってしまう。悟りと煩悩の関係は木と火のたとえのようである。煩悩と離れられないからこそ、悟りは煩悩を燃やして智恵となるのである。煩悩は煩悩であることによって燃えて智恵となるのだ。煩悩、自分の中から得た智恵によってつくりかえられる。煩悩はみちびかれる。煩悩全体が変じて智恵となるのだ。智恵の母体は煩悩それ自身である。4-42
人間のもろもろの欲求を放れたところには、仏はないということだった。「生きている人間だけが、仏になれると言うことである。この身で、この世で成仏するほかには、悟りのひらきようがないのだ。」4-43

仏は光である、光は智恵であるという意味のことを、親鸞はあらゆる場合に口にした。光りはもののすがたをありのままに照らすものだ。あるがままのものを、ありのままに知るはたらきが、仏法で言うところの智恵であった。ことばを変えると仏にしたがうということは真理にしたがうということになる。仏のはたらきとは、ありのままな真理のちからであるということになる。それが釈迦以来の仏教の本流であり、基本的な考え方であった。親鸞もそうであった。

「煩悩は煩悩であることによって燃えて智恵となるのだ。煩悩、自分の中から得た智恵によってつくりかえられる。」煩悩はあってもいいのです。マンネリや不満があっても、そのことに気づき、そのまま二者両立を目指す心境を知恵といいました。煩悩を消して意気消沈するよりは激しい欲やエネルギーを社会のために使うこと、能力を発揮、高めることのほうがクリエイティブなのです。

「木像よりは画像、画像よりは名号」とつねに口にしていた親鸞であった。それなら親鸞の意に反して、宗派を確立しようとした覚如は不肖の曾孫ということになる。4-47
寺もいらぬ、経もいらぬ、ただ六字の名号があればよいのだと、九十年の生涯を通した。4-48
親鸞はいついかなる場合にも、浄土真宗なる新興の旗をたてたことはなかった。4-80
歎異抄をあらわした唯円は廻心ということを反省とか、懺悔とか自己批判という意味に解しているようであった。が、廻心は改心とはちがうのだ。煩悩具足の凡夫には、善心とか清浄心というようなものは、もともと持ち合わせていないのである。善悪のけじめさえのみこめていないのだ。改めようがないのである。親鸞は人間とはそういうものだと見きわめていた。その凡夫にできることは、改心ではなく廻心である。改めるのではなく、向け直すのである。凡夫のままで、仏の道をあゆむことであった。4-76

自分の内にみい出される他力のはからいによって、ためらわず、疑わず、自力いっぱい生きることこそ、とりもなおさず絶対他力の信心生活である。そのような生き方を不安がったり、疑ったりするのは、仏の智慧と慈悲を知らないところからくるものだ。4-84

根本の心理を悟って、それ以後はまったく煩悩疑惑がなくなることを意味するが、もしも廻心をそういうふうに解釈しているのなら、とんでもないまちがいだ。大悟徹底とはよく言われる言葉だ。しかし人間が生きていく上にはたしてそのようなことが可能か。悟った瞬間から人間がすっかり変わるものかどうか。私は今日まで、人間というものは決してそうしたものではないということを、くどいくらい、そなた(子の善鸞)に話してきたと思っている。廻心とは大悟徹底ではない。生活全体が廻心につらぬかれているということは、仏の誓願を信じるということの裏には、かぎりない反省と自己批判があってのことだ。大悟徹底したおかげで、以後は煩悩疑惑と一切縁が切れるというものではないからだ。4-89

二十九歳のとき、ひとたび廻心し、以後は死ぬときまで廻心生活を続けながら、親鸞は絶望と、悲歎と、懺悔をくりかえした。これは容易ならぬことであった。教法の真理性は、自己において自証されるものでなければならないのだが、親鸞は九十年の生涯にわたって絶望し、悲歎し懺悔することによってそれを自証した。教えというものは、たれのためのものではなく、よくよく自分ひとりのためのものであった。4-94
善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや
親鸞は「自然法爾」ジネンホウニを書いた。自然とはそのものとして自らそうなっていることをいい、法爾とは真理そのものにのっとって、そのごとくあることをいうのである。親鸞が自力のはらいを捨てて如来の手にすべてをまかせきることを自然法爾と説いたのは、その意味であり、弥陀という絶対の中に身を投ずることを意味した。4-370

親鸞ははじめから浄土真宗の開祖ではありません。そんなことどうでもよかったのです。名号、称号の南無阿弥陀仏だけを唱える生き方でした。寺も何もありませんでした。阿弥陀如来の慈悲を信仰し、全ての人が浄土へ往生して成仏するという絶対他力への信仰でした。
京で妻帯し、京を追放され、越後に流され、許された後は関東で布教活動を行い、そして晩年はまた京に戻っています。そのとき関東の門弟たちの信仰上の動揺を鎮めるために子の善鸞が派遣されましたが、親鸞と異なる教えを広めようとして善鸞を破門してしまいました。教えても教えても理解できない子に対する愛情があふれています。このことも親鸞を大いに苦しめることでした。仏教でいう四苦八苦の愛別離苦が襲うのでした。

善鸞にとって父の教えはあまりに奇怪であった。いままでだれもそんなことは言っていなかった。父の師の法然ですら、そんなふうに言っていなかった。即身成仏というのは、この肉体のままで仏になるというのだが、それは真言秘の教えの根本の意趣であった。そのためには、三密加持といって、手に印契を結び、口に真言を誦え意に本尊を観じて、大日如来の身口意の三業と行者の三業とを相応せしめる神秘な修行によって成就される悟りであった。また、六根清浄といって、眼耳鼻舌身意の六根、すなわちこの肉身が清浄無垢となって、無碍自在のはたらきをなす法は、一乗の妙典である法華経に説かれていることであった。それは四安楽行といって、身も心も安楽にみちびく身口意と誓願との四つの修行によって感得される功徳であった。真言の即身成仏も、法華の六根清浄も、いずれも難行の道であって、生まれつきすぐれた聖者によって漸く修することが出来、観念を凝らしてはじめて成就される悟りであった。悟りとはそういうものだと善鸞は思い込んでいた。4-46

善鸞の考えは現代にもよくある状況です。自力で行う座禅瞑想を独学で行うものほど、野弧禅という独りよがりの悟りに達するのです。自分は特別な存在であり、悟ったから人を導く権利ができたなど、という話はよく聞きます。親鸞のごとく死ぬまで自分の師は法然であるという下座心と感謝心が心の成長には欠かせません。禅や真言の世界でもここのところは長い歴史の中で組織として厳しく律しているとありました。

最後に私はいかなる宗派にも所属していません。ヨガには考え方がありますがそれは生命即神という考え方です。命の働きは親鸞の考えにも似ているところがあります。煩悩の肯定です。思い通りにならなくて良かったなぁ。具合悪くて良かったぁ。そこから努力し命の計らいに協力することを生活に求めるのです。生きるのに思い通りにならないからヨガの先生になったという人もたくさんいます。人に説き、自ら動き、自分を戒めるのです。

TNCアドバンスコースレポート

TNCートータルニューロコンディショニングーを学んで3年目になります。その間ベーシックの復習期間もあり、今年はアドバンスコースにチャレンジしました。
脳・神経の発達そして強化、そして衰退にどのように対処するかを学びました。強化にいたっては筋力不足もあり、ついていけないところもあります。そしてあらゆる生物と同じく衰退期のプロセスも面白く講義を受けました。なにせ自分のことですから実感することばかりです。
それぞれの講習でレポート提出を課せられましたのでここに記録として載せていきます。誤字脱字があることに気がつきましたがそのまま載せることにしました。
TNC_水野レポート1
TNC_水野レポート2
TNC_水野レポート3
TNC_水野レポート4

コラボヨガセミナーについて

このセミナーは新潟市の山田晃先生と私の二人が講師になって、「沖ヨガとは」というタイトルで毎月1回、オンライン_ZOOMを使って開催しています。去年の8月から開催して16回目になります。受講者は札幌市、恵庭市、網走市、北見市、新潟市、燕市、上越市、長岡市など多方面から参加いただいています。
発端はコロナ禍が始まり、山田先生とは、沖ヨガ協会の役員であったため近況報告している間に、沖ヨガをもっと伝えたいということに意見が一致しました。当初は沖正弘先生の考え方や沖ヨガ道場での行法内容を紹介する程度でしたが、回を重ねて、系統的にテーマを作り、「沖ヨガとは」を案内しています。
この数回は山田先生は沖ヨガ10段階を毎月、1段づつ解説して現在、8段階のサマディ、三昧です。私は数回前より沖先生の初期の出版である”ヨガのすすめ”を使って動禅の説明、そしてポーズの説明を紹介しています。
最近のコラボヨガのレジメ(水野分)ここに掲載します。どうぞ一読してください。

第27回コラボヨガセミナー
第26回コラボヨガセミナー
第25回コラボヨガセミナー
第24回コラボヨガ水野レジメ
第23回コラボヨガ水野レジメ
第22回コラボヨガ水野レジメ
第21回コラボヨガ水野レジメ
第20回コラボヨガ水野レジメ
第19回コラボヨガ水野レジメ
第18回コラボヨガ水野レジメ
第17回コラボヨガ水野レジメ
第16回コラボヨガ水野レジメ
第15回コラボ_配布
第14回コラボ_レジメ水野担当
第13回コラボ_レジメ水野担当

TNC_発達ステップ

沖ヨガ北海道連合会の緊急事態明けのセミナーに参加して上記のテーマで話しをしました。懐かしい面々が集まりお互いの安否&活動など交流しました。この会は設立から事務局長、副会長、総務、代表世話人など肩書きはさまざまですが、それも30歳の時の設立から40年間で役を降り、今は気ままに参加させてもらっています。残念ながら写真を撮らなかったので、レジメだけを紹介します。
終了後の反応は上々で、やはり心身の不調、普通の行動が取れない教室受講生の人がいるけれども、この発達ステップのエクササイズを是非取り入れたいという相談もありました。このエクササイズは他のエクササイズが出力させることが中心で不調な人はついてこれないのですが、発達ステップは入力を意識することが大切であり、それを元に心身の不調を解消するものです。
加齢や運動不足は単なる筋肉骨格だけでなく、脳の機能までも低下します。脳の向上について、可能性のあるエクササイズをこれからも伝えていきたいと思います。

呼吸法の基礎

呼吸法は今まで書いたことがないので改めてここに基礎的な内容ですが書いてみます。
雑学はいくつか書いているので下の段に参考に記しておきます。

呼吸のしくみ
酸素を取り入れ、炭酸ガスを出す。 生命活動の基本。
ガス交換は肺と組織 肺を外呼吸、組織を内呼吸という。(内呼吸のトレーニングも面白いのでそのうち書いてみます。<人生が変わる最高の呼吸法>
「呼吸法(こきゅうほう)とは、呼吸(息)のしかた、またその技術体系やそれを用いた訓練法などのこと。 身体の機能を向上させることを目指すもの、心の働きを活発化させるもの、心の落ち着きをもたらすことを目指すもの、心身全体の調和をもたらすことを目指すもの、等々がある。」ウィキペディア

呼吸法のメリット
呼吸は感情を表現する。また感情は呼吸に現れる。呼吸をコントロールすることで感情を操作することができる。呼吸を変える方法は呼吸法の練習とアサナによる体癖の解消である。
心のコントロール
体のコントロール
血液循環の促進
老化廃棄物の浄化 
免疫力の向上
内臓強化の働き

呼吸法の種類
息を、吐く息(レチャカ) 留める息(クムバカ) 吸う息(プーラカ)に分ける。
締めることをバンダといい、息を止めるときに締める場所を ムラーバンダ会陰、ウディアナバンダ腹、ジャーバンダラバンダ喉という。(バンダナもそのたぐい)
吸って留めるアンタラクムバク 吐いて留めるバーヒャクムバクという。バーヒャクムバクはウディアナバンダの時に使う。

腹式呼吸—横隔膜を主に使う。
胸式呼吸法—胸郭の肋間筋をも使う。
胸腹式呼吸—意識的に横隔膜を下げ、次に肋間筋を使う。
完全呼吸法—胸腹式呼吸で吸う息でクムバクを入れる。
逆式呼吸法—古来の武道で使う呼吸法で、吸う息で腹圧を高める。
長音呼吸法—アオン、オーム、ハー呼吸法  長く息を吐く。マントラ呼吸。
単音呼吸法—声を短く出して、発声する。
カパラバーティ—鼻から強く短く息を吐く。30〜60回を目やすにする。
ナディショダナー—右指で鼻を押さえ片鼻ずつ行う。吐いた方から吸い、反対へ吐く。 
スカアプルバク—ナディショダナーで吸ってクムバクを入れる。
ウジャイ—喉で吐く息に抵抗を与える。
口すぼめ呼吸法—吐く息で口をすぼめて抵抗を作る。ストロー呼吸法もある。
バストリカ—吐く息・吸う息を強く行う。ふいごの呼吸法といわれる。
鶴の呼吸法—呼吸法に疲れた時、斜め右上から吸って、正面で吐き、左から吸って、正面で吐く。
リズム呼吸法—吸う息・吐く息を1:1で行う。ヨガアサナときに主に使う。
笑いの呼吸法—吐く呼吸、腹に力が入る、意欲的であるという心身息の三拍子が伴う。

呼吸法の姿勢と時間
呼吸法をするには胸周りの筋肉を柔らかくしておくこと。例えば胸郭をねじる。胸を開く。背中を丸くするなどである。ネコのポーズなど。
背筋を立てて座る。目を閉じて行う。
一つの呼吸を3分〜10分。織り交ぜて30分くらい。
例えば:腹式呼吸5分、完全呼吸法5分、ナディショダナー 10分、カパラバーティ3分
スカアプルバク10分、バーヒャクムバク3分・・・

時間の取り方は水野ヨガ学院webサイトhttps://www.mizunoyoga.com”お知らせ”を参照。
◯お家ヨガをするときの便利グッズ”時計の音をダウンロード”

上記の内容は下記のpdfから抜粋して作成しました。
呼吸法の基本

呼吸の雑学
水野ヨガ学院ブログから
呼吸法の大事なところ 2013年11月

呼吸法の大事なところ

息を吐いて胸を膨らます 2010年10月

息を吐いて胸を膨らます

腹を抱えて笑う_息を吐いて腹が膨らむ
2010年09月

腹を抱えて笑う_息を吐いて腹が膨らむ

吸う息を意識すること 2010年09月

吸う息を意識すること

食べるとき息を止める 2010年09月

食べるとき息を止める

コラボ5の予告と貴重な資料

8月から始めている、新潟市の山田晃先生との沖ヨガを振り返って、オンラインヨガセミナーが5回目になりました。初めはコラボと言いながら、好き勝手に沖ヨガ道場の話をしてましたが、この数回はきちんとカリキュラム内容を統一して、中身の濃いセミナーを開催しています。まず案内の資料は以下の通りです。そして今回は五体投地を行います。基本的にこの五体投地は108回行います。以前、瀬戸内寂聴さんが天台宗の得度を受けるために3000回やったという話を聞きました。今回私たちは出来る範囲でゆっくり、30分くらいやろうと企画しています。又前回に修正法をしたのですがそれが途中で終わってしまったので、その補講もやろうと思っています。



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夜景を撮りにいきました

某月某日
コロナ禍がまだまだある中、札幌。旭ヶ丘公園に夕方出かけ、札幌市の北側の夜景を撮りにいきました。まず驚いたことは人が多い。家族づれやカップルがたくさん来ています。その中で三脚を立て、じっと夜景を睨んでいる、男二人。レンズシャッターを絞り込んで25秒のシャッター速度。小さな三脚でよくぶれなかったと感心です。

そして帰りに、俗称石山通の歩道橋に上って、又パチリと。コロナ禍で土曜夜とあって車の量が少なく、あんまり綺麗な写真が撮れません。おまけに散歩途中、カメラ持って三脚なし、小さなカメラをポケットに街路灯に押さえつけてなんとか。

西岡公園の水源池にて

Wikipediaでは西岡水源地のことをこのように説明しています。
<自然観察の場として広く市民に親しまれている公園のシンボル>

明治42(1909)年、旧陸軍第7師団歩兵第25連隊は、月寒川上流に軍用水道として月寒水道を建設しました。この取水塔はその時完成した水道施設の一部で、昔はこの塔まで渡ることの出来る小さな橋もありました。月寒水道は道内近代水道施設としては、函館、岩見沢に次ぐ歴史的にも貴重な遺構です。昭和46(1971)年の白川浄水場完成で用途廃止後、この水源池は西岡公園として整備されました。豊かな自然環境の中、六角錐型の取水塔は西岡水源池のシンボル的存在となっています。