円山動物園に行く

連休前の小雨降る、悪条件の中、カメラに詳しい友人と円山動物園に行きました。目的は写真です。幼稚園児、小学生の団体がたくさん来ていますが、いたって空いています。明日からは混雑するでしょう。いちばんの目的は北極クマ。迫力ありますね。人以外の動物界の頂点にいるそうです。

エゾシカ・オオカミ館では見慣れた鹿だけど、堂々としていました。そしてオオカミはずっと寝ていた。ちょっと残念。
・・とか何とか・・でアップダウンのある坂道、そして建物中、階段と結構歩きました。13000歩です。4時間くらい居て帰る頃には雨が止んでいました。

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羊ヶ丘展望へ散歩

コロナ禍の最中ですが、展望台は入場無料のせいか、次から次へと車が入っていきます。たまに私みたいに、歩いて入っていく人もちらほら。クラーク像のところは写真に収めようと人だかりです。キッチンカーも泊まって、ランチを提供しています。賑やかな土曜日の午前でした。私はソフトクリームを買い、記念写真を撮り、ジャガイモを家人の分も持って帰りました。

 

オンラインヨガレッスン

6月初めから無料オンラインヨガレッスンを始めました。解散以降、あってない人と会えて、また札幌を超えて、オホーツク地区、新潟、時々ですが愛媛とかオンラインの時空を超えた能力に感心します。

そして9月からは有料になりますが、気軽にヨガに接してください。オンラインのメリットは何と言っても出かけなくてもいいということです。それにほとんど見られていないので、できなくても恥ずかしくないことです。そして人と話し合ったり、情報交換できるということは素晴らしいことです。

9月のカリキュラムは掲示板に発表していますが、ヤマニヤマ のところは沖正弘先生の語録をこれからテーマにしていくつもりです。

オンラインヨガレッスン15
目をリラックスしよう(瞬き、視点移動 、etc)
沖先生の語録:ヨガとは何か
 一番基本になっている心というものを養い、高め、強め、清めるには、一体どういう体を作ればいいのかということから、体の訓練がくっついとるわけ。心だけのやつを「修養」というんだ。体だけのを「修行」という、生活だけのを「修業」という。これを全部合せてのヨガ、わかるね。
だから、そこが普通の肉体訓練とは違う。普通の肉体訓練は、心とか生活から離れておるのが大半なのよ。それを唯物的と、こういう。心だけのを唯心的という。唯物だけでも困る。唯心だけでも困る。一緒にしたものがヨガ。(沖正弘選集13_p2Q&A)
1(心がまえができると体をていねいに扱うことができる)
アサナ:体を楽にするテーマ:ほぐすことの大切さ
  五感を通して内部感覚を意識する
 半月のポーズ(内蔵の強化/ヘルニア調整)
 バッタのポーズ(脊椎下部調整・膝強化)
  大切なことは自分の体を観察する習慣を持つこと。
2(体が整うことで呼吸が楽になる。)
 プラナヤーマ:発声体操
      (肺機能高める呼吸法です。)
 3(体と呼吸が整うことで心が素直になる)
ディアナ:ソーハム瞑想法 (あなたと私)   <出所不明>
 吸う時 「ソー」 吐く時 「ハム」を心で繰り返す。
  私は太陽です。太陽は私です。
  私は空です。空は私です。
  私は宇宙・・
  私は花・・・。・・鳥・・。・海・。・山・。
  あなたは私です。私はあなたです。
  全ては一つです。すべてはつながっています。
宇宙創成の100億年前にビッグバーンであらゆる元素が均等に宇宙にばらまかれた。多くの銀河の元素組成はそのためによく似た構成になっている。
すなわち、私という存在の元素組成は山や川や鳥や太陽や空と同じなのだ。合掌
水野健二
「質疑応答」全文
  (沖正弘先生晩年のヨガ行法の中心はQ&Aであった。)
1301(沖正弘選集13_p2Q&A)(当時の雰囲気のままに言葉を訂正していません。)
 (ヨガ体操を行じながら、物理療法や漢方薬を併用してもいいのでしょうかという質問)<ヨガとは何か>
 あのね、ヨガはどんなものかというとね、精神修養が中心なんだ。それが出発だ。人間も動物の一種だけど、動物の中で心が優先しているのは人間だけ。人間以外の動物は体が優先している。いちばん心身の異常を作り出しやすい元になってるのは心なんだ。
わかるでしょう。
 だから、そういう心のための体の訓練がヨガの肉体的訓練になっているわけ。わかるね。どうしてそういう結論に達するかというと、自己を支配しとるものは、自分の中で働いている命の働きであるからである。
 他物に頼ってみても、自己の中の力が高まるわけじゃない。力というものは、使ったほど高まる。使わないほど弱まる。だから、例えば病気の場合でも、いくら他物に頼ってみたところで、自分の中にその他物を活用するだけの力がなかったら、「これは、こういう効能がありますよ」と言ったって、ある人にはあるかもしれないけど、そのもの自身に効能を引出すだけの力はない。
 例えば、ある人がいい話をしたとするね、その場合でも、百人集っている人が同じような受け取り方をするかというと、決してそうではない。その人の、いいかね、受け取り態勢、理解能力、その人の体験で、同じ一つの言葉の捉え方が違うだろう。それと同じこと。だから、他物は、頼らなきゃなん時は頼るべしだ。頼っていいんじゃない、頼らなきゃならん。ところが、多くの者は、今言った、己れの力を高め、整え、清めるという基本原則を忘れてしまって、他物にだけ頼ろうとする。それが、いいかね、人間世界への弊害を生み出している。
 他物に頼る学問というのは非常に発達しているんだ。医学なんてものすごく発達してるじゃない。治療法なんて、ものすごく発達してるじゃない。薬物学なんて、ものすごく発達してる。「もう要らん」というぐらいだ。「これでもか、これでもか、これでもか、これでもか」と、効能を並べ立てたものが毎日生産されている。
 ところが、本当の事を知らない奴は、その他物の効能に惑わされちゃうんだ。「これはこういう効能がある」って言うと、それがそのまま自分に当てはまると思っている。「そんなはずがない」て言ったって「そんなはずはある」と言う。だから救われない。
 ヨガはそういう愚かなことを言わない。他物に頼ってもいいから、まず、自分の頼る他物が最高の効能を発揮できるような自分を作ることを、まず第一番にする。他の人に「助けて下さい」と言っていいんだよ。しかし、他の人に「助けて下さい」という場合は、自分が出来るだけのことをやって、それから他の人に「助けて下さい」と言え。
 これは正しいんだ。「俺は俺の力だけで生きる」なんて言うてみたところで、それは不可能なこと。だから、ヨガは「正しい生き方をしろ」ということ。他物が必要な場合は、他物の協力を得るのが当たり前である。
 ところが、例えば、病気を専門に研究する医学と称しているものには、阿呆みたいなことをやってるじゃないか。薬を使ったって治らない病気に薬を使う。薬で治るんなら、皆んな薬のんでるものは、治ってるはずじゃないか。色々、薬をのんでみても薬で治らない、ということは、その人にとっては効力がないということよ。絶対に体はウソを言わないんだから。命が、「本当なら、この薬はあなたには効能がないんだけども、折角、一生懸命飲んでんだから、じゃ効能を出してあげましょうか。」とウソを言うと思うか。
「本当は、あんたはハリは効かないんだけども、お灸なんか熱いのを我慢してんだから、あんたの我慢に免じて、治るようにしてあげましょう。」なんて、やってくれないんだ。
 だから、いいか、沖ヨガ以外は全部ウソばっかり言ってる。沖ヨガの特色は、「絶対にウソを言わん」というのが特色だ。沖ヨガの場合は、絶対に他のものを否定しない。なぜかというと、それが必要な人には必要なんだ。先日も、こんな女にね、誰かくっつく男があるだろうか、と心配しておった女が、(俺は本当に嬉しく思うんだが、)「こんな男の嫁さんになる女がおるだろうか」と思っていたところで「結婚します」と言った「あー、一人の男を救ってくれた」と嬉しく思った。
 だから、否定もしない、肯定もしない。否定も肯定もしないという、いいかい、純白なる立場をとるから誤らなぃ。誰が何と言おうとも、いいものはいいんだ。誰が何と言おうとも、間違いは間違いだ。だから、ヨガにとっては学説は関係ない。知識も関係ない。民族別も関係ない。何にも関係ない。ヨガは本当のことだけを求める。
はい、次。
 (沖正弘選集13_p2Q&A)
このQ&Aを読んでいると、当時の沖ヨガ修道場や札幌での合宿講演会後の「質疑応答」の場面を思い出します。 大変緊張した時間でもありました。当然正座です。シーンとしています。道場ではあるときは100人〜200人くらい在籍していました。後ろの方では英語やスペイン語、中国語で訳しているグループがいます。
それを体験している我々は、札幌で合宿があると同様に緊張していました。スタッフだけ10~20名くらい集められ、「質疑応答」が始まります。車座になって、夜遅くまで続きます。終わるとラーメン買ってこいと言われ、大きな鍋を持って1時2時頃ススキノに車を走らせ、藻岩山にある、合宿所の東本願寺まで帰ってくると、かなりノビテています。一筋だけ沖先生は食べ、うまい美味いと言って、食べろ食べろというのですが、ノビテ冷えています。残したり捨てたりしたらまた怒られるので数人で美味しそうに食べました。
当時、北海道には門下生が10位のグループをつくり、沖先生の来道を機に講演会合宿をしていました。沖先生の千歳空港への送迎は全部私がやりましたので、ずいぶん個人的に接する機会があったのは恵まれていました。と、懐かしい思い出がこの「質疑応答」で湧いてきました。
最後にこの「沖正弘選集」は20冊以上有り、膨大なテープの中から「テープ起こし」をされたものです。ボランティアの皆様に感謝しつつ、引用させていただきました。合掌

コラボオンラインレッスン1を終えて

先日、新潟ー札幌間をオンラインヨガレッスンを行いました。参加者は恵庭、江別、訓子府、網走、上越、南魚沼、大阪の方々が、ご自宅からオンラインで結ばれて、講師の質問などに答えたり、講師の動きなどに合わせて90分を楽しみました。
普通、オンラインレッスンというと、顔を合わせた授業と比べて、極端に短いのが普通ですが、我々のオンラインはあっという間に時間が過ぎ、90分を過ぎてしまいました。
次回また企画しますので、沖正弘先生について関心ありましたら是非ご参加ください。

西岡公園の水源池にて

Wikipediaでは西岡水源地のことをこのように説明しています。
<自然観察の場として広く市民に親しまれている公園のシンボル>

明治42(1909)年、旧陸軍第7師団歩兵第25連隊は、月寒川上流に軍用水道として月寒水道を建設しました。この取水塔はその時完成した水道施設の一部で、昔はこの塔まで渡ることの出来る小さな橋もありました。月寒水道は道内近代水道施設としては、函館、岩見沢に次ぐ歴史的にも貴重な遺構です。昭和46(1971)年の白川浄水場完成で用途廃止後、この水源池は西岡公園として整備されました。豊かな自然環境の中、六角錐型の取水塔は西岡水源池のシンボル的存在となっています。

カメラを持って散歩

我が家から歩いて20分くらいのところに、西岡公園があります、その中に水源地のという大きな貯水池があって市民の散策の場所になっています。

カメラと三脚を担いでテクテクと。

(動画容量が260mbあるのでダウンロードするのに時間がかかるかも)

<最悪の時が最高の時である>

<オンラインヨガレッスン7のレジメ>
オンラインヨガでは毎週テーマを変えてヤマニヤ・アサナ・プラナヤマ・ダラーナの各項目を取り入れて開催しています。持ち時間は1時間なので、動きの時間が多いですが、ほかの項目を入れないとヨガにならないので数分間でディアナの話をしたり、瞑想したりしています。

今回のディアナの内容は以下の通り。
沖正弘先生の語録の一つです。<最悪の時が最高の時である>
沖先生は講演会の終わった後、世話人を集めて質疑応答会を開催されました。その時色々な話が出ます。大きな病気になりましたと受講生が報告に来ると、「良かったな、これからきちんとヨガができるのじゃないか。」、ある受講生が事業に失敗しました、言うと「良かったな、これで自分のことを考えずに菩薩行ができるぞ」と。
これとよく似た内容が以下の本にありました。

この本は「禅マインド ビギナーズ・マインド」鈴木俊隆(Apple社のスティーブ・ジョブスが愛読した禅のバイブルと書評にあります)からとりました。
p71「良い父親は、良い父親ではない」と言います。どう言うことでしょうか。自分のことを良い父親と考えている人は、良い父親ではありません。自分を良い夫と考えている人は、良い夫ではありません。もし良い夫になろうと専心して努力すれば、自分を最悪の夫と考えていても、良い夫になります。痛みや、そのほかの身体の難しさのために座ることができないと考えても、厚い坐蒲や椅子を使って、とにかく座らなければなりません。・・・(それが)禅の真髄に至るでしょう。ー禅の真髄ー

ここまでがレジメの中で説明していますが、この項を全部紹介しないと消化不良になりそうなので全文を紹介します。

「禅の真髄」
 ある経典に、四種類の馬の話があります(雑阿合経典、第三十三巻〈サンユクタ・アーガマ)。四種とは、車越した馬、優秀な馬、普通の馬、そして劣った馬です。卓越した馬は、鞭の音が聞こえる前に、騎手の意志にしたがって、早足や並足、あるいは左右に走ります。優秀な馬は、鞭がちょうど皮膚に届くか届かないかのうちに、卓越Lた馬と同じように走ります。普通の馬は、身体に鞭の痛みを感じたときに走ります。劣った馬は、痛みが骨の髄まで達したときに走ります。劣った馬が走ることを学ぶのに、どんなに大変かわかるでしょう。

 この話を聞くと、誰もが卓越した馬になりたいと思います。卓越した馬になることはできなくても、せめて優秀な馬になりたいと思います。これがこの話の、また禅の通常の理解です。坐禅をすれば、自分が最高の馬か、劣った馬か、わかると考えます。しかしここには、禅についての誤解があります。坐禅の修行は最高の馬になるためのトレーニングだ、と考えるのであれば問題です。それは正しい理解ではありません。正しい方法で禅を修行すれば、最高の馬でも、一番劣った馬でも関係ありません。プツダの慈悲を考えてみれば、プッダがこの四種の馬に対してどう感じていたかは、すぐにわかるでしょう。プッダは、卓越した馬よりも、最悪の馬に対して、より慈悲を感じたはずです。

 プッダの偉大な心とともに坐禅の修行をすると決意すると、最悪の馬こそがもっとも大事な馬だとわかります。自分が不完全であるからこそ、道を求める心のしっかりとした基礎ができるのです。完全に正しい姿勢で座る人は、およそ禅の本当の道、禅の実際の感じ、禅の真髄を見つけるのに時間がかかります。しかし、坐禅をするのは大変だ、非常に難しいと感じる人は、より大きな意味をそこに見つけるでしょう。そこで私は、ときに最高の馬は最悪の馬かもしれないし、最悪の馬は最高の馬になりえると考えるのです。

 書道を学んでいると、あまり技術の巧みでない人が最良の書家になることがあります。あまりにも技術が巧みな人は、ある段階から先へ進むのに、壁にぶつかるのです。これは芸術でも、また禅でも、いえることです。人生でもそうなのです。私たちが禅のことを話すとき、「この人はよい」「この人はよくない」とは、普通の意味ではいえません。

 坐禅でとる姿勢は、一人一人違います。人によっては、足を組むことができない人もいます。正しい姿勢がとれなくても、真に道を求める心を起こすことができれば、真の意味で禅を修行できることになります。座るのが難しい人のほうが、簡単に座ることのできる人よりも、道を求める心を目覚めさせるのは、やさしいのです。
私たちの毎日を振り返ってみると、いつも自分自身を恥じているようなところがあります。弟子の一人が手紙で「日めくりカレンダーを送ってくださいました。そこには毎日のすばらしい教訓が書かれています。それを守ろうと思いましたが、まだ年が明けて何回もたっていないのに、もう守ることができなくなりました!」と書いてきました。

 道元禅師は「将錯就錯」(しょう・しゃく・じゅ・しゃく)といわれました。錯(しゃく)とは、「やりそこなう」「間違う」という意味です。将錯就錯とは、「間違いを間違いで受け継ぐ」という意味です。あるいは、間違いを続けてしまう、という意味です。
道元によれば、ずっと続く間違いが、禅でもありえます。禅の老師の一生とは、長い年月の将錯就錯ともいえるのです。それは、長い年月、間違えても間違えても、ひたむきに続ける、ということです。

 「よい父親は、よい父親ではない」といいます。どういうことでしょうか。自分のことをよい父親であると考えている人は、よい父親ではありません。自分をよい夫であると考えている人は、よい夫ではありません。もしよい夫になろうと専心して努力すれば、自分を最悪の夫と考えていても、よい夫になりえます。痛みや、そのほかの身体の難しさのために座ることができないと考えても、厚い坐蒲や椅子を使って、とにかく座らなければなりません。あをたが最悪の馬でも、禅の真髄に至るでしょう。

 あなたの子どもが、重い病にかかっているとします。なにをしたらよいのかわかりません。ベッドに横になっていることもできません。普通、一番快適な場所といえば、暖かい、安楽なベッドでしょうが、今は、心の苦しみのために、休むことすらできません。立ち上がって歩き回りますが、役に立ちません。苦しみを和らげる一番の道は、坐禅をすることなのです。心が混乱し、姿勢が悪くなっていてもです。こうした困難なときに、坐禅をしたことのない人は、禅を学ぶ者とはいえません。ほかのどんな行為も、あなたの苦しみを和らげることはできません。ほかのどんな姿勢も、自分の困難を受け入れる力を持たないのです。しかし、長い、困難な修行で確立した坐禅の姿勢によって、あなたの心と身体は、好き、嫌い、よい、悪いなしに、あるがままに受け入れる偉大な力を持つのです。

 惨めに感じたときは、座るほうがよいのです。自分の問題を受け入れて、それに対処するには、ほかに道はありません。そのとき、あなたがよい馬であるのか、悪い馬であるのか、姿勢がよいか悪いかは、問題外です。誰もが、坐禅を修行できます。そのようにして、自分の問題に対処し、受け入れるのです。

 自分の問題の中で座っていると、どちらがよりリアルでしょうか。あなたの問題ですか。あなた自身ですか。「今、ここにいる」という気づきだけが、究極の事実なのです。坐禅によって把握するのは、このポイントなのです。よい状況、惨めな状況の連続の中で、修行を続けることによって、あなたは、禅の真髄を悟り、真の強さを獲得するでしょう。

羊ヶ丘展望台にて

初夏の昼頃、久しぶりの太陽のもとで羊ヶ丘展望台へ行きました。数日前に年間パスポートを買いました。その時はぶらっと散歩の途中で思いつきで歩いて展望台の中をまあまあの距離を歩いて有名なクラーク像にたどり着きました。
今回はヨガポーズを写真に収めるためにカメラ三脚を持って車で入場です。
まだ自粛期間なのに、たくさんの車と人です。写真撮るとこないのにがっくりです。
それでも誰もいないところを探して、以下のポーズです。
前もそうだったのですが、動画収めるのは大変です。メモリーの制限があります。早送りではどうしても雰囲気が出ないので、今回少し工夫を入れました。ご覧あれ。
まず<聖人のポーズ>

<逆立ちのポーズ>

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<英雄3のポーズ>

<半月のポーズ動画>
2007hangetu_tenbou

<youtubeから>

無題

 6月に入り緊急事態の通知が終わり、街に賑わいが戻っているようです。私はまだまだ自宅待機を続けています。
 この数日、私もZOOMたるものをやってみました。今まで何回か友人仲間とやったことがあり、また30−40人のZOOMも受けました。そしてホストも体験しました。いろいろ問題が多く、ノウハウの蓄積が必要と思います。
 これから定期的にこのZOOMを使って無料でヨガレッスンをして蓄積していきたいと思います。

話は変わります。
 天気が良く久しぶりの初夏を楽しんでいます。展望台の前を朝早く通ると、今日からオープンということで係りの人が開門の準備をしていました。
私も何かウキウキと森林総研の中に入り、簡単にポーズをとりました。ちょうど昼時なので、誰も通りません。30分くらい撮った一部を載せます。同じくメモリーの関係で早回しになっています。
BGMが時計の音です。この時計の音は自主トレをしている時もずっと鳴らしています。時間をかけて行うポーズを測るためには無くてはならないグッズになっています。

<森林総研でヨガのポーズ>2006初夏のひと時

このウィルス禍に思うこと

 私は朝は早起きです。夜はテレビを見ることが少なくなったのでしょうか、早く寝ます。いや年老いたからでしょう。
 いつもと同じに早く起きて、何気なく古い辞書を手に取りました。中から黄色くなった新聞の切り抜きとメモがパサリと落ち、しみじみと眺めていると、遠い昔が思い出されます。それは1967年の高校卒業式のメモとその説明の記事でした。その記事は後年ですが、メモの意味がよくわかります。
 そのメモと記事には「時代考験青年_青年創造時代」と書いてあり、台北市のレンガ壁の落書きだそうです。漢字の国らしく深い意味が当時の、この国に置かれた事情を表しています。

 「歴史の大転進期に直面している現代は青年を厳しく試験し、激しく追求している。果たして彼らが、時代の試練に耐え、その要請に応えうる実力を養いそだてつつありや否やと。他方、青年には明日の世界を開拓して、一段と人類社会の進化発展に寄与すべき責任が現存する、明日の時代は、今日の青年が想像する責任がある、義務がある。」
と、記事の中で筆者が解釈をしています。
 今21世紀の現代の中で、新型コロナウィルスの大きな問題、そして新たな香港問題、まだまだくすぶっている、中国・台湾問題。これらは50年前とほとんど変わらないことに驚きです。今やコロナ問題が余計に加わって、ますます、人間とは社会とは経済とはと考えなければならないことが山盛りです。その中で当時のような青年のエネルギーが少なくなってきているような気がします。
 安保時代の私にとって、当時は青年たちが社会に働きかける機運が多くありましたが今は何か寂しい気持ちです。青年が頑張っているのが香港だけです。

 ちなみにこの作者 湯浅八郎さんは当時、京都市教育委員長として高校の卒業式に来賓挨拶に来られました。湯浅八郎さんは長く同志社大学の総長を務められ、この記事からもわかるように国際基督教大学を創始され初代総長にもなった人です。

 朝のひと時、とても気持ちのいい時間を過ごしました。

・・書いていて、あれ、どこかでこれ書いたことあるな、と思い、このブログを「時代考験青年」で検索してみたら、「2009.04.09」にありました。関心があれば読んでください。

最後に湯浅八郎さんのこと調べていたら以下の詩がありました。とても深く感銘を受けましたので、ここに記させていただきます。
 湯浅は自身の生活信条を表す言葉として、次のような言葉を残した。
「 生きることは愛すること
愛することは理解すること
理解することは赦すこと
赦すことは赦されること
赦されることは救われること」
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