コラボオンラインレッスン1を終えて

先日、新潟ー札幌間をオンラインヨガレッスンを行いました。参加者は恵庭、江別、訓子府、網走、上越、南魚沼、大阪の方々が、ご自宅からオンラインで結ばれて、講師の質問などに答えたり、講師の動きなどに合わせて90分を楽しみました。
普通、オンラインレッスンというと、顔を合わせた授業と比べて、極端に短いのが普通ですが、我々のオンラインはあっという間に時間が過ぎ、90分を過ぎてしまいました。
次回また企画しますので、沖正弘先生について関心ありましたら是非ご参加ください。

西岡公園の水源池にて

Wikipediaでは西岡水源地のことをこのように説明しています。
<自然観察の場として広く市民に親しまれている公園のシンボル>

明治42(1909)年、旧陸軍第7師団歩兵第25連隊は、月寒川上流に軍用水道として月寒水道を建設しました。この取水塔はその時完成した水道施設の一部で、昔はこの塔まで渡ることの出来る小さな橋もありました。月寒水道は道内近代水道施設としては、函館、岩見沢に次ぐ歴史的にも貴重な遺構です。昭和46(1971)年の白川浄水場完成で用途廃止後、この水源池は西岡公園として整備されました。豊かな自然環境の中、六角錐型の取水塔は西岡水源池のシンボル的存在となっています。

カメラを持って散歩

我が家から歩いて20分くらいのところに、西岡公園があります、その中に水源地のという大きな貯水池があって市民の散策の場所になっています。

カメラと三脚を担いでテクテクと。

(動画容量が260mbあるのでダウンロードするのに時間がかかるかも)

<最悪の時が最高の時である>

<オンラインヨガレッスン7のレジメ>
オンラインヨガでは毎週テーマを変えてヤマニヤ・アサナ・プラナヤマ・ダラーナの各項目を取り入れて開催しています。持ち時間は1時間なので、動きの時間が多いですが、ほかの項目を入れないとヨガにならないので数分間でディアナの話をしたり、瞑想したりしています。

今回のディアナの内容は以下の通り。
沖正弘先生の語録の一つです。<最悪の時が最高の時である>
沖先生は講演会の終わった後、世話人を集めて質疑応答会を開催されました。その時色々な話が出ます。大きな病気になりましたと受講生が報告に来ると、「良かったな、これからきちんとヨガができるのじゃないか。」、ある受講生が事業に失敗しました、言うと「良かったな、これで自分のことを考えずに菩薩行ができるぞ」と。
これとよく似た内容が以下の本にありました。

この本は「禅マインド ビギナーズ・マインド」鈴木俊隆(Apple社のスティーブ・ジョブスが愛読した禅のバイブルと書評にあります)からとりました。
p71「良い父親は、良い父親ではない」と言います。どう言うことでしょうか。自分のことを良い父親と考えている人は、良い父親ではありません。自分を良い夫と考えている人は、良い夫ではありません。もし良い夫になろうと専心して努力すれば、自分を最悪の夫と考えていても、良い夫になります。痛みや、そのほかの身体の難しさのために座ることができないと考えても、厚い坐蒲や椅子を使って、とにかく座らなければなりません。・・・(それが)禅の真髄に至るでしょう。ー禅の真髄ー

ここまでがレジメの中で説明していますが、この項を全部紹介しないと消化不良になりそうなので全文を紹介します。

「禅の真髄」
 ある経典に、四種類の馬の話があります(雑阿合経典、第三十三巻〈サンユクタ・アーガマ)。四種とは、車越した馬、優秀な馬、普通の馬、そして劣った馬です。卓越した馬は、鞭の音が聞こえる前に、騎手の意志にしたがって、早足や並足、あるいは左右に走ります。優秀な馬は、鞭がちょうど皮膚に届くか届かないかのうちに、卓越Lた馬と同じように走ります。普通の馬は、身体に鞭の痛みを感じたときに走ります。劣った馬は、痛みが骨の髄まで達したときに走ります。劣った馬が走ることを学ぶのに、どんなに大変かわかるでしょう。

 この話を聞くと、誰もが卓越した馬になりたいと思います。卓越した馬になることはできなくても、せめて優秀な馬になりたいと思います。これがこの話の、また禅の通常の理解です。坐禅をすれば、自分が最高の馬か、劣った馬か、わかると考えます。しかしここには、禅についての誤解があります。坐禅の修行は最高の馬になるためのトレーニングだ、と考えるのであれば問題です。それは正しい理解ではありません。正しい方法で禅を修行すれば、最高の馬でも、一番劣った馬でも関係ありません。プツダの慈悲を考えてみれば、プッダがこの四種の馬に対してどう感じていたかは、すぐにわかるでしょう。プッダは、卓越した馬よりも、最悪の馬に対して、より慈悲を感じたはずです。

 プッダの偉大な心とともに坐禅の修行をすると決意すると、最悪の馬こそがもっとも大事な馬だとわかります。自分が不完全であるからこそ、道を求める心のしっかりとした基礎ができるのです。完全に正しい姿勢で座る人は、およそ禅の本当の道、禅の実際の感じ、禅の真髄を見つけるのに時間がかかります。しかし、坐禅をするのは大変だ、非常に難しいと感じる人は、より大きな意味をそこに見つけるでしょう。そこで私は、ときに最高の馬は最悪の馬かもしれないし、最悪の馬は最高の馬になりえると考えるのです。

 書道を学んでいると、あまり技術の巧みでない人が最良の書家になることがあります。あまりにも技術が巧みな人は、ある段階から先へ進むのに、壁にぶつかるのです。これは芸術でも、また禅でも、いえることです。人生でもそうなのです。私たちが禅のことを話すとき、「この人はよい」「この人はよくない」とは、普通の意味ではいえません。

 坐禅でとる姿勢は、一人一人違います。人によっては、足を組むことができない人もいます。正しい姿勢がとれなくても、真に道を求める心を起こすことができれば、真の意味で禅を修行できることになります。座るのが難しい人のほうが、簡単に座ることのできる人よりも、道を求める心を目覚めさせるのは、やさしいのです。
私たちの毎日を振り返ってみると、いつも自分自身を恥じているようなところがあります。弟子の一人が手紙で「日めくりカレンダーを送ってくださいました。そこには毎日のすばらしい教訓が書かれています。それを守ろうと思いましたが、まだ年が明けて何回もたっていないのに、もう守ることができなくなりました!」と書いてきました。

 道元禅師は「将錯就錯」(しょう・しゃく・じゅ・しゃく)といわれました。錯(しゃく)とは、「やりそこなう」「間違う」という意味です。将錯就錯とは、「間違いを間違いで受け継ぐ」という意味です。あるいは、間違いを続けてしまう、という意味です。
道元によれば、ずっと続く間違いが、禅でもありえます。禅の老師の一生とは、長い年月の将錯就錯ともいえるのです。それは、長い年月、間違えても間違えても、ひたむきに続ける、ということです。

 「よい父親は、よい父親ではない」といいます。どういうことでしょうか。自分のことをよい父親であると考えている人は、よい父親ではありません。自分をよい夫であると考えている人は、よい夫ではありません。もしよい夫になろうと専心して努力すれば、自分を最悪の夫と考えていても、よい夫になりえます。痛みや、そのほかの身体の難しさのために座ることができないと考えても、厚い坐蒲や椅子を使って、とにかく座らなければなりません。あをたが最悪の馬でも、禅の真髄に至るでしょう。

 あなたの子どもが、重い病にかかっているとします。なにをしたらよいのかわかりません。ベッドに横になっていることもできません。普通、一番快適な場所といえば、暖かい、安楽なベッドでしょうが、今は、心の苦しみのために、休むことすらできません。立ち上がって歩き回りますが、役に立ちません。苦しみを和らげる一番の道は、坐禅をすることなのです。心が混乱し、姿勢が悪くなっていてもです。こうした困難なときに、坐禅をしたことのない人は、禅を学ぶ者とはいえません。ほかのどんな行為も、あなたの苦しみを和らげることはできません。ほかのどんな姿勢も、自分の困難を受け入れる力を持たないのです。しかし、長い、困難な修行で確立した坐禅の姿勢によって、あなたの心と身体は、好き、嫌い、よい、悪いなしに、あるがままに受け入れる偉大な力を持つのです。

 惨めに感じたときは、座るほうがよいのです。自分の問題を受け入れて、それに対処するには、ほかに道はありません。そのとき、あなたがよい馬であるのか、悪い馬であるのか、姿勢がよいか悪いかは、問題外です。誰もが、坐禅を修行できます。そのようにして、自分の問題に対処し、受け入れるのです。

 自分の問題の中で座っていると、どちらがよりリアルでしょうか。あなたの問題ですか。あなた自身ですか。「今、ここにいる」という気づきだけが、究極の事実なのです。坐禅によって把握するのは、このポイントなのです。よい状況、惨めな状況の連続の中で、修行を続けることによって、あなたは、禅の真髄を悟り、真の強さを獲得するでしょう。

羊ヶ丘展望台にて

初夏の昼頃、久しぶりの太陽のもとで羊ヶ丘展望台へ行きました。数日前に年間パスポートを買いました。その時はぶらっと散歩の途中で思いつきで歩いて展望台の中をまあまあの距離を歩いて有名なクラーク像にたどり着きました。
今回はヨガポーズを写真に収めるためにカメラ三脚を持って車で入場です。
まだ自粛期間なのに、たくさんの車と人です。写真撮るとこないのにがっくりです。
それでも誰もいないところを探して、以下のポーズです。
前もそうだったのですが、動画収めるのは大変です。メモリーの制限があります。早送りではどうしても雰囲気が出ないので、今回少し工夫を入れました。ご覧あれ。
まず<聖人のポーズ>

<逆立ちのポーズ>

ーーー
<英雄3のポーズ>

<半月のポーズ動画>
2007hangetu_tenbou

<youtubeから>

無題

 6月に入り緊急事態の通知が終わり、街に賑わいが戻っているようです。私はまだまだ自宅待機を続けています。
 この数日、私もZOOMたるものをやってみました。今まで何回か友人仲間とやったことがあり、また30−40人のZOOMも受けました。そしてホストも体験しました。いろいろ問題が多く、ノウハウの蓄積が必要と思います。
 これから定期的にこのZOOMを使って無料でヨガレッスンをして蓄積していきたいと思います。

話は変わります。
 天気が良く久しぶりの初夏を楽しんでいます。展望台の前を朝早く通ると、今日からオープンということで係りの人が開門の準備をしていました。
私も何かウキウキと森林総研の中に入り、簡単にポーズをとりました。ちょうど昼時なので、誰も通りません。30分くらい撮った一部を載せます。同じくメモリーの関係で早回しになっています。
BGMが時計の音です。この時計の音は自主トレをしている時もずっと鳴らしています。時間をかけて行うポーズを測るためには無くてはならないグッズになっています。

<森林総研でヨガのポーズ>2006初夏のひと時

このウィルス禍に思うこと

 私は朝は早起きです。夜はテレビを見ることが少なくなったのでしょうか、早く寝ます。いや年老いたからでしょう。
 いつもと同じに早く起きて、何気なく古い辞書を手に取りました。中から黄色くなった新聞の切り抜きとメモがパサリと落ち、しみじみと眺めていると、遠い昔が思い出されます。それは1967年の高校卒業式のメモとその説明の記事でした。その記事は後年ですが、メモの意味がよくわかります。
 そのメモと記事には「時代考験青年_青年創造時代」と書いてあり、台北市のレンガ壁の落書きだそうです。漢字の国らしく深い意味が当時の、この国に置かれた事情を表しています。

 「歴史の大転進期に直面している現代は青年を厳しく試験し、激しく追求している。果たして彼らが、時代の試練に耐え、その要請に応えうる実力を養いそだてつつありや否やと。他方、青年には明日の世界を開拓して、一段と人類社会の進化発展に寄与すべき責任が現存する、明日の時代は、今日の青年が想像する責任がある、義務がある。」
と、記事の中で筆者が解釈をしています。
 今21世紀の現代の中で、新型コロナウィルスの大きな問題、そして新たな香港問題、まだまだくすぶっている、中国・台湾問題。これらは50年前とほとんど変わらないことに驚きです。今やコロナ問題が余計に加わって、ますます、人間とは社会とは経済とはと考えなければならないことが山盛りです。その中で当時のような青年のエネルギーが少なくなってきているような気がします。
 安保時代の私にとって、当時は青年たちが社会に働きかける機運が多くありましたが今は何か寂しい気持ちです。青年が頑張っているのが香港だけです。

 ちなみにこの作者 湯浅八郎さんは当時、京都市教育委員長として高校の卒業式に来賓挨拶に来られました。湯浅八郎さんは長く同志社大学の総長を務められ、この記事からもわかるように国際基督教大学を創始され初代総長にもなった人です。

 朝のひと時、とても気持ちのいい時間を過ごしました。

・・書いていて、あれ、どこかでこれ書いたことあるな、と思い、このブログを「時代考験青年」で検索してみたら、「2009.04.09」にありました。関心があれば読んでください。

最後に湯浅八郎さんのこと調べていたら以下の詩がありました。とても深く感銘を受けましたので、ここに記させていただきます。
 湯浅は自身の生活信条を表す言葉として、次のような言葉を残した。
「 生きることは愛すること
愛することは理解すること
理解することは赦すこと
赦すことは赦されること
赦されることは救われること」
ーーーーー

水野ヨガ学院の解散のご挨拶

今まで、お知らせの項目に掲載していましたが、一段落が過ぎましたので、お知らせから削除して別項を立てて、このブログに移すことにしました。

新型コロナウィルスは世界を恐怖のどん底に落とし込み5/26現在、540万人の感染者、34万人の死者を作り出しています。それもようやく恐るおそるですが、市場開放に向かいつつあります。やむを得ない経済活動の必要性からでしょう。しかし、またいつ何時、都市封鎖になるやもしれません。今日現在であれば、まだまだ、安心などできたものではありません。

旧水野ヨガ学院の解散に至った出来事を時系列に記しておきたいと思います。

2月24日お知らせ;
新型コロナウィルス予防のために水野ヨガ学院は3月、1ヶ月間クラス授業をお休みします。

2020年3月17日のご挨拶;
<水野ヨガ学院は3月31日をもって解散します。33年間、ありがとうございました。>
新型ウィルスは世界的に広がりを見せています。ただいま、当学院は休講中ですが、その先のことを考えると学院の運営が厳しいと判断しました。ただ、長くご利用いただいている方のことも考え、、、思慮を重ねて、大変申し訳なく解散することになりました。受講生の方、スタッフの一人一人の顔を思い浮かべ、ある人には事情の電話をかけて了承してもらいました。ホントー、ホントーにお世話になりました。現在、来ておられる受講生の方、ご契約をいただいているご法人には挨拶文を出させていただきましたが、管理不足で住所が不完全な方もおられ、出すことはできませんでした。ここにお詫び申し上げます。
解散ご挨拶

2020年3月21日 経過報告
新型ウィルスは北海道はかなり縮小されましたがまだまだ油断はできません。ご挨拶状を一部ですが出させていただきました。住所不明で帰ってきた人も多々あります。またお電話やお手紙などいただきます。
恐縮の限りです。しかしいろいろな方とお話しして、内面の気づきも多々ありました。3月4月と待てば回復の兆しはあるのですが、やはり結論には多くの伏線がありました。まず私が高齢になったこと、後継者を育てられなかったこと、そしてカリキュラムやシフトの硬直化などがあったのかもしれません。
1年前くらいから、誰もいない教室で、ふっといつまで出来るのかなと思うことしばしばでした。たくさんの受講生、そして難題に答えてくれる研究生に囲まれ、それでも寂しさはありました。やはり生まれ、生き、消滅が森羅万象の掟なのです。その消滅がただ新型ウィルス問題と重なっただけでした。なにやら解散をウイルス問題にすり替え、ウィルスに申し訳なかったような気がします。
30歳前にヨガの世界に入り、10年間は学びの立場でヨガに関わり、33年間は組織的に活動してきました。
今、改めてフリーの立場でまたヨガを見ることができるのかと思うと、何かちょっと楽しい気分もあります。何しよう、どのようにしよう、どこでしよう、誰としよう、、など。
その日のために、高齢になったとはいえ、いつもと同じように、毎日を過ごしています。その日のために。どうぞまた、その日が来たらよろしくお願いします。水野健二

お家ヨガ30分_2のご案内

そろそろ、非常事態宣言の解除の可能性が待ち焦がれている時期になりました。ステイホームも最近では大きなストレスになりつつあります。いまは我慢です。日本の対応がどうのこうのと言われていても、感染者死者も諸外国からみても圧倒的に好成績です。島国ニッポンの過去の感染を調べてみました。(https://books.j-cast.com/2020/03/24011184.html)

 律令国家による中央集権国家は全国の道路網の発達で疫病が拡散しやすい社会になった。奈良時代は、まさにそうした時代であり、聖武天皇(701~56)は疫病の蔓延や天候不順による飢餓、大地震などに深く悩んだ。そして人身一新を図る究極の国家的プロジェクトとして東大寺の大仏造営に着手し、仏法の威霊によって天地が安泰となることを祈った。神仏に頼る機運は人々の間にも高まり、「節分」の「鬼は外」の鬼とは、「疫病神」のことで、「感染症は国外に出ていけ」の意味だったという。

 昔からある、この感染症を現代人はそこにある自然を見くびり、この世の春を謳歌し続けた人間への大きな警告であったと言えましょう。人間は大自然の中のごくごく小さな存在であり、この大自然に育まれているのだということを忘れてはいけないのです。
 
 ということで、今日の30分レッスンはヨガの規則と言われている「八支則」に従って進めていきたいと思います。沖先生の後半の教えは「十支則」ですが説明上、世界共通の「八支則」で進めます。
 ヨガをするには心構えが必要です。それがヤマ・ニヤマ(禁戒・勧戒)です。心を整えること、人であり続けるためには、他人との関係、自分の訓練が必要です。それをヤマ・ニヤマといいました。沖先生は「生きる」ベース、基本なるものを「生命則神」と定義し、その行動を感謝・懺悔・下坐・捧仕・愛行であることを示し、生活上の心構えとして「生活行持集」を定めました。
 次にアサナです。以下に続く各修行法、例えば呼吸法や瞑想の前に体を整える必要があるためにこのアサナを重要視しています。次に続くことが大切です。それをしないと、単なる柔軟体操、ストレッチ、筋トレで終わります。
 いよいよ、呼吸法です。腹式もあれば、片肺呼吸法もあります。プラナ(生命素)を体に取り入れ、それをしっかり吸収できるために、炭酸ガスをたくさん発生させるクムバクが太古の昔からあるというのは先人のひらめきだったのでしょうか。
 プラティヤハラは制感自立訓練といわれ、感情・感覚を制感コントロールしていく練習です。人間は本能のままにというわけには、いかないのです。
 そして瞑想行法、ダラーナ統一行、ディアーナ禅定行に入っていきます。ディアナはとらわれない練習という意味で禅を意味しますが、現代は様々な瞑想の学びがあってサマタ瞑想、ビパサナ瞑想という言葉も私は覚えました。仏教国日本は古くから念仏、真言、題目、禅などを民衆に広げてきましたが、大乗仏教であるがゆえに、救済目的の教えから易行が多かったようです。すなわち、集中を中心とする瞑想、サマタ瞑想が多かったように思えます。しかしある宗派は芸術的な分野でどんどん裾野を広げていき、茶道や庭園制作、書道などと発展しました。これなどは観察瞑想であるビパサナ瞑想の要素があるのではないかと思います。どちらも人間形成になくてはならないものです。禅という考えはとらわれない、自然の一部として生きていくことを考えると異常な欲を廃する教えでもあります。人と接することで欲を出しやすくなる、現代社会の中で欲を持たないで、ただ生きるという生き方も感染症に無縁になる生き方だったのでしょう。
 次にサマージ三昧です。喜び、生きる喜び、山川草木悉皆成仏という生き方らしいです。私はわかりません。ある歴史作家も仏教ほどわかりにくい宗教は他にないのに、世界宗教になっている。まずお釈迦様みたいな人になるために修行しているが、そのような人はみじかに誰もいない、それなのにお釈迦様になりたいと思って修行する、変な宗教だと。本来、お墓もお寺もないのにいまは立派なお寺がたくさんあるのは変だと言います。無い物ねだりの目標であったり、幸せであったりを求めていく心境でしょうか。ヨガの行も個人の幸せを求めていく一つの方法です。その行の仕方に先生がいて、インドではグルと言われていました。インドでは多くのグルがいますがまた、たくさんの聖者もいます。ツアーで連れて行ってもっら時、この人は聖者、次の日にこの人も聖者、そしてまた別のところで聖者とたくさんの聖者を紹介してもらいました。聖者の特色はとにかく物をくれるのです。ハガキであったり、アメであったり。日本では心身ともに仕えるグルは、かの事件があって皆無になりました。
 グルや導師がおられなくても、ヨガは自力修行の一つです。そんなことを考えながら、コロナ禍の最中、修行練習に励みましょう。
 節分はとっくに過ぎたけど、おにわそと、と疫病神を追い払いましょう。

<30分お家ヨガ_2>0519朝M

新しいヨガマットです。10mmあります。
 

「お家ヨガ30分_1」のご案内

新型コロナウィルスのエーキョーで皆さま、いかがお過ごしですか。
お仕事に出かける方はホントーに大変でお気をつけください。
さて、3月以来、缶詰め状況の私にとって、頭はもう鈍っていますので、ここでは横に置いて体が鈍らないように、1万円で買ったビデオでお家ヨガのたびに映像化しています。パソコンに入れるのは時間がかかって大変ですが、今回はブログに載せるのを念頭に、慎重に、流れを作って映像化しました。30分のものをブログに載せるために、一番大変なのは映像の容量です。きれいで、そのままの時間で撮ると数GB必要でとても載せられません。数MBくらいです。1000分の1縮小しなければなりません。どうするか、桜の木下でもやりましたように、早送り、メール添付仕様くらいに少なくしました。見ずらいと思いますが、想像力を豊かにして参考にしてください。(映像アプリによりますが、コマ送りしてみると一つ一つがしっかりと見えます。)
今回は肩周りを中心に行いました。私の肩をもう少しなんとかしたいと思っています。柔らかいと思っていたのですが、あるポーズを作ると全く動きません。ということで肩を楽にしたいと思っています。部分即全体というので肩だけなんとかしてもそうはいかないのは承知しています。体全体を意識しながらやってみてください。私は肩こりが無いのでわかりませんが、肩背中の不調にも良さそうです。

『「お家ヨガ30分_1」』0512昼


懐かしヨガマット