断捨離ってなに?

先日の合宿の時に講師が断捨離という言葉を発せられ、当学院の受講生がそれを聞いて後日、あの「だんしゃり」ってなんですか、と聞いてきました。
その講師は「断捨離のすすめ」という本がよく売れている、あの本は整理整頓する方法を仏教の言葉で上手に本の書名にしたものだ、ヨガの中でプラティヤハラという段階があるが心の執着をとるために断捨離が必要だ、という内容でした。
私の身の回りには物にしろ、情報にしろ溢れています。ほっとくと物であれば「ゴミ屋敷」になるし情報であれば「自称評論家」になりひいてはノイローゼーになってしまいます。中村天風師の本を読むと、インドのヨガ部落で修業しているときに「文明人の理屈の多い頭をからっぽにしないければ何を教えても無駄だ」と言われるところがあります。映画「アバター」の中でも自然の中で生きている惑星人が地球人に向かって「頭をからっぽにしなければ自然の神から何も教えを得ることはできない」というような場面がありました。
私たちの生活は物欲、名誉欲、金欲、欲、欲ときりがありません。この欲のコントロールをするのがプラティヤハラ(制感自律訓練行法)です。詳しくは当学院hpに少しだけ書きました。
http://www.mizunoyoga.com/gakuin/q23.htm#l121
ところでヨガのポーズを作っているときに、できない、痛いは日常茶飯事ですが、できるときには突然できると様々なところでのべています。工夫と努力は当然大切ですが、痛みを我慢するという、とらわれや、ポーズを作ろうという気持ちが執着が欲につながってきているのです。頭をからっぽにしてただその場その場を感覚を受け入れていくしぐさこそがポーズであり、そのようなときになると瞑想になっていきます。そしてそのようなときに、こちらから思い追い求めていた対象が向こうからやってくるのです。求めているものを断つ、捨てる、離れるという断捨離は言葉で言えるほど簡単なことではありません。断捨離という思いこそが欲になってしまうのです。
それで数年前面白い体験をしました。我が家のリフォームの際です。家を片づけなければなりませんのでいらないものを捨てているとこの捨てるという作業が楽しくなってきました。来週の大型ごみの日に向かって、毎日小さな家の中を探索しています。何か捨てるものないか、いらない、いらないを繰り返し身軽になったわが持ち物に満足していました。ところがリフォームも終わり数年経ちました。また物が増え始めてきました。あれほどすっきりしていた家の中も見苦しくなってきました。これを見ても捨てるというのは癖です。またため込むというのも癖です。身一つで雲水のごとく、インドのサドゥのごとく生きることが一番の幸せかもしれません。
Maslowマズロー欲求階層説から抜粋
Sadu出典絵葉書