般若心経について
とても大切な般若心経について書かなくてはならないのに忘れていました。ここに養成コースに使う内容の資料を載せます。参考にしてください。
とらわれない、とらわれない、無、無、無、と説いているお経が「般若心経」です。中国のおとぎ話(西遊記-孫悟空の出てくる物語)の三蔵法師は歴史上の玄奘の「大唐西域記」のモデルです。そして玄奘はサンスクリットの般若心経を漢訳している一人です。
ヨガのクラスでも時々これを読んでいますが、少しでも意味がわかれば仏教の教えにちかづき、そしてヨガの教えにも参考になることたくさんあります。
般若心経の本文はおろか意訳を読んでもさっぱりわからないのは普通です。「門前の小僧、習わぬ経を読む」でただ何回も何年も読んでいると愛着がわき、わかったつもりになるのが不思議です。
この般若心経は悟りの状況を説明した文章だから内容は奇妙なことばかりです。それでもところどころわかる漢字を抜粋して意味をひらうだけで仏教の奥深さがわかってくる気がします。
そしてまた「八正道」ならぬ「八支則」が仏教とヨガが同じだということがこのお経からわかってきます。
八正道とは仏教の修行の基本となるもので正しい見解(考え方)、決意、言葉、行為、生活、努力、思念、瞑想をいうとあります。(広辞苑出典)
八支則とは社会的コントロール、身体的コントロール、精神的コントロールに分けられています。
1.やっちゃいけないこと。
2.やらなければならないこと。
3.アサナをすること。
4.呼吸をすること。
5.感覚をコントロールすること。
6.集中すること。
7.とらわれないこと。
8.瞑想すること。
よく似ているものです。それはそうだ。お釈迦さんが苦行林で修行したのはヨガだったのです。
それにこの般若心経には人の一生のことも書いてあります。
★ それらが生ずるものでもなく、滅するものでなく、けがれもせず、淨くもならず、増しもせず、減りもしないということである。だから、空無の世界には、肉体も、感覚も、想念も、意欲も、自我も、目も、耳も、鼻も、舌も、身も、意も、色も、声も、香りも、味も、触れるものも、思うことも、見る世界も、かって経験した世界も、盲目的本能も、本能の尽きることも、老死も、老死の尽きることも、苦悩も、愛執も、安心も、修行も、知ることも、得ることもないのである。★
生まれて、死んで、その間に体のことや心のことや食べたりセックスしたり苦労したり喜んだりなど、いろいろなことのある一生のできごとがこの文章です。
そしてヨガのポーズを作る上で以下のところは好きです。
五感を説明しているところで、脳神経(嗅いで見る動く車の・・の12神経の覚え方がありました。)に関係しているところです。
★ 目も、耳も、鼻も、舌も、身も、意も、色も、声も、香りも、味も、触れるものも★
目があって見る、耳があって聞く・・この感覚を十分に使ってヨガのポーズを作ると集中してリラックスしやすいのだと書いてあります。それらは顔の周りに集まっている感覚器なのでそれと体をつなぐ首の弛緩の重要性もわかります。
ところで日本は聖徳太子の時代くらいから仏教国になりました。聖徳太子は世界遺産の法隆寺を立てた人です。神道が宗祖である天皇家が仏教を祭るとは不思議な日本国の成り立ちです。当時の大陸からの影響が大きかったのでしょう。その仏教の影響を受けて生まれた日本語はたくさんあります。
★ 因果なこと、縁起でもない、我慢する、この餓鬼、愚痴っぽい、根性が悪い、金輪際、四苦八苦、邪魔になる、随分、世間、絶体絶命、不思議、分別盛り、無我夢中、誤魔かす、迷惑、、有頂天、挨拶・・・★
現在との用語と違う意味にになっているのもあります。「挨拶」、これは師弟との間で悟りの深さを問答するときの応対のことを言う、禅問答のことです。他にもあるかもしれません。調べてみると面白いと思います。
般若とは「智恵」のことで心経は「教え」のこと。接頭語で摩訶(まかふしぎのまか)がついて「摩訶般若波羅密多心経」は<偉大なる智恵の真理を把握する肝心な教え>という意味です。まだよくわかりません。
それでは智恵とは何ぞや、それは「真理の法(ダルマ)に目覚めること」。それでは真理とは何ぞや、「真理とはありのままの姿」。ならば「智恵とはありのままの姿をありのままに見ることをいう」ことでしょう。まだまだよくわかりません。
それなら、仏教の智恵には「三法印」があります。
一、 諸行無常 あらゆるものが常に変化していく。
二、 諸法無我 あらゆるものが互いに深く関連している。
三、 涅槃寂静 心の安らぎこそが真の幸せであり、実相の世界(宇宙の心)を感じ取れることである。(仮相の世界は苦難や迷いの世界のことを言います。)
これはわかりやすい。
1.諸行無常は「おごれる人も久しからず」の平家物語の一節です。これはわかる。
2.諸法無我はこの世に一人、ひとつの種で生きている生物なんていない、また人生であっても縁を感じることがあります。人の口はうるさい、後ろ指刺されぬように気をつけなさい、と言われるのもこのことです。
3.心の安らぎをまず得ることが大事なことなんだよと言っています。
ところが「心の安らぎ」なんてなかなか大変で難しいということも私たちは良く知っています。それを般若心経でも苦諦として説明しています。始めの四苦は「生・老・病・死」で、それぞれが苦しいものだ。そしてまだまだ苦しいものがありますよと次に続きます。四苦八苦の次の四苦です。
それは「愛別離苦」という愛する人と別れなければならない苦しみです。喪に服するというのも精神的ダメージを癒す期間なのでしょう。「怨憎会苦」(おんぞうえく・怨んで憎んでも別れられない苦しみ)これも今の社会にありますが、少しは束縛が少なくなって「サイナラ!」が言いやすくなっています。
「求不得苦」(ぐふとっく・求めても得られない苦しみ)はこの世は欲が渦巻いているという意味です。次から次へと欲が沸いてくる、不思議な社会です。それらは犯罪となったり心の不安をあおり立てています。
五蘊盛苦(ごうんじょうく・身も心も苦しみの原因を抱えている)とはこの私たちのこと、あなたも、わたしも、あのひともみんな苦しみやその原因を抱えているのです。
お釈迦さんは「人生は苦なり」生老病死の四苦八苦から逃れることはできないとおっしゃった。凡人はそりゃかなわん。どうしたらいいと聞いたら「智恵」を身につけるように修行しろと「八正道」を説かれたのであります。すなわち「苦しみにとらわれないよう」に訓練することです。
ところでヨガのポーズのときも痛い、苦しい、イヤだといった場面によく出くわします。
この自分の体、どうなってるの。他の人は楽にできているのに自分は拷問状態であることがありあます。私は指導しているときに皆さんが「痛い痛い」と言うと「そう、痛いんです。そうそうそれでいいのです。痛いのが楽しいね、うれしいね。」と。ときには「大丈夫です。無理しないでね」と言って、なにか、かなり矛盾したことを言っています。
ここのところは「三法印」に似ています。捕らわれていると悲鳴だが、心静かにしていると諸行無常だから、執着さえしなければ、感覚は必ず変化するのです。そして体のいろいろなところを動かしてつながりを作るとますます楽になっていく。その先は「涅槃寂静」で気持ちのいい姿勢が完成すると理解しています。
初めの頃にヨガって、自らいやなことをする練習であると教わりました。なまった体を鍛えて、たるんだ根性をたたきなおす。そうすると気分が良くなるのだと。きびしい言葉ですが体って不思議であり本当なのです。
そして痛いけど、苦しいけど、命の働きは賢いのです。私たちは死ぬまで生きるのです。悩んで悩んでリラックスして知恵を出してありのままの練習をして楽しく生きて行くのです。そして何かいいことたくさんある。今までもたくさんありました。これからもたくさんあるでしょう。
漫画は「般若心経のすべて」公方俊良著から抜粋
般若心経および意訳は沖ヨガ修道場行持集
親鸞文庫本 丹羽文雄著