水野流「沖ヨガ」について

私のこと 沖ヨガのこと

沖ヨガの創始は沖正弘師で、私も出席した3年前の「第1回ユネスコ国際ヨガの日」記念祭ではインド大使が日本に初めてヨガを取り入れたMaster Oki Masahiroに感謝すると表彰されたいきさつがあります。

沖先生は1958年にヨガの活動をはじめ、1967年に三島市に道場を開設し、その前後から報恩奉仕の求道ヨガとして海外、国内において研修会を開催しました。1975年くらいから国内でカルチャーセンター設立の機運が高まり、沖先生も新聞社の要請で全国展開が始まりました。札幌でも「本当のヨガ」「真善美」などのテーマで講演会が開かれました。

水野が三島にあるヨガ道場に入門したのもこのころです。道場では外国の人や老若男女、病気を持っている人、元気のいい学生、様々な人が滞在していました。一言で「沖ヨガとは何か」と言うのはむつかしいですが、日本の文化を大切にし、そして心の在り方を強調しています。依頼心や消極性、自己中心な思考をとても嫌います。せっかくいただいた命を大切にご恩返しの生き方をするのが命の使い方であり、ヨガであるといいます。

命のはたらきを尊び、感謝するための様々な考えや動きを行うのがヨガです。その命は自然法則に従います。命も大自然と同じですから、それは絶え間なく変化しバランスを取って、安定化していきます。生命はバランス維持能力(自然治癒力)を持っていますから刺激を絶えず与え続ける必要があります。命の働きを活性化するためには総合的でなければなりません。いまでいうホリスティックです。部分的な刺激ではなく全体性があって目的を達成します。そしてバランス能力が高まるのです。

少し難しい話をしました。やさしい例にしましょう。当時も道場には痩せたい、病気を治したい、などと目的を持ってこられます。痩せたい、病気を治したいなどの例を取ると、自分に申し訳ない、命が悲しんでいる、すばらしい能力のあるはずの命の働き、バランス能力があるのに、太った、または病気になった。自らの責任です。厳しいです。原因不明とか偶然とかいう言葉は存在しません。それは自ら改善していくために必要な考えです。おそらく癖、習慣がそうしたのだろう。命の働きは総合的だから、心の執着、体の歪み、食べ物の間違い、時には目に見えない力かもしれない、これらが原因となってバランス能力が悪くなっていたのです。

どうするか。依頼心を捨てる、心の執着を除くために人のために働く、人のために精一杯、体を動かし働く、歪みを取るために嫌なことを意識的に行う、食べ物は生きた命をいただく儀式であること、そして大自然に感謝することなどが沖ヨガの根幹です。ヨガのさまざまな行法(ぎょうほう)であるところのポーズを作ること、呼吸法、瞑想、食べ物、祈りなどはすべて変化刺激です。正しい刺激を与え、自然治癒力、元に戻す力を高めるのです。

私たちは自分が正しくて利口であると思っています。その自意識過剰、自己中心が問題を引き起こすのです。沖先生は「あなた方は無知であることを理解しなさい。」といいました。そして「ヨガとは生き方で損をする方法だ。どうしたら損して、相手に喜んでいただくか考えなさい。」ともいいました。自分自身が無知であり、損することであってもその中から最良のものを人は引き出す力を持っているのです。無知だから学び習得する、損するのだから、共存共栄を考えることができる様に人間性を高めるのがヨガなのです。

沖先生から学んだヨガは生活ヨガ、様々なことを学ぶことが総合ヨガですが、そのヨガは水野流となり本流から大きく舵を切っていますが、この考え方は私の大きな財産になっています。

最後に人生全てが順風ではありません。当時、ある人が教室経営がうまくいかないと質問したところ、沖先生は俺の弟子が本当にヨガを学んでいるのなら苦しいわけがない、学び方が悪いと諭されました。私は今でもそのことを時々思い出しています。

そして研究生。ヨガを学ぶみなさまに次の言葉を贈ります。

「ヨガは心のチカラです」