感謝のこころ

年の瀬も迫り。「お世話になりました」「いいお年を」の挨拶が飛び通います。
そんな数年前の出来事です。押しボタン式の横断歩道をいつもと同じように青になるまで待っていました。青になったので、いざ渡ろうとした時です。目の前をダンプカーが走り去って行きました。瞬間のことなので「えっっ」と運転手の顔を見上げました。何か手を挙げている仕草が見えます。多分それは、悪い悪いというジェスチャーなのでしょうか。
通り過ぎてから、しばらく足が動きません。命拾いしました。

この出来事があってから、私は横断歩道が怖くなりました。そういえば新聞等で見る事故は横断報道上が多いのです。考えてみたら交通規則では赤はとまれ、青は行けですが、赤で止まってくれるのは絶対でありません。歩行者と運転者は全く信頼がないので、善意で止まっているにしかありません。見ず知らずの人と信頼が築けるわけありません。信号を見ていないこともあります。考え事をしていたり、スマホを手にしたり、車の中ではいろいろなことをしているのです。前を向いていないこともあるのです。そんな時に青信号になったからといって、歩道に出ることは自殺行為です。

そんなことがあってからは、横断歩道は危険な場所として、車が止まってから、またはかなり減速してから、一歩を踏み出すことにしています。そして運転手の顔を見て、そして渡り終わった時には軽く会釈をします。時には渡ろうとしている時にすでに歩行者信号は青信号を点滅していることもあります。それでも命のやり取りの場です。しっかり確認して渡らなければならないのです。
そして赤で車が止まることは決して当たり前のことではないのです。だからこそ止まってくれたことに感謝の意味で会釈をするのです。ありがとうと。渡り終えた時はとても気持ちいのです。

ヨガでは感謝とは価値を見出す己の力と言います。止まらないこともある横断歩道で止まってくれることは当たり前ではありません。これは死にそうになった自分だからこそ、当たり前でなく価値のあることです。それでありがとうと会釈をします。

私たちが生きていることでは当たり前のことは何一つありません。だからこそ一つ一つのことに小さな価値を見出すと、「ありがとうございます」の言葉が出てきます。心が和やかになるのです。この「ありがとう」だけで生きる力が湧いてくることは間違いありません。

そろそろ新年を迎えます。当たり前に新年を迎えるのではなく、今、元気でよかったな、いつもと同じでよかったな、生かされていることに感謝の気持ちで、「あけましておめでとうございます。」と言える喜びを迎えます。たくさんの人々のおかげで、今年も生かさせていただきました、ありがとうございます。
来年もどうぞよろしくお願いします。