<オンラインヨガレッスン7のレジメ>
オンラインヨガでは毎週テーマを変えてヤマニヤ・アサナ・プラナヤマ・ダラーナの各項目を取り入れて開催しています。持ち時間は1時間なので、動きの時間が多いですが、ほかの項目を入れないとヨガにならないので数分間でディアナの話をしたり、瞑想したりしています。
今回のディアナの内容は以下の通り。
沖正弘先生の語録の一つです。<最悪の時が最高の時である>
沖先生は講演会の終わった後、世話人を集めて質疑応答会を開催されました。その時色々な話が出ます。大きな病気になりましたと受講生が報告に来ると、「良かったな、これからきちんとヨガができるのじゃないか。」、ある受講生が事業に失敗しました、言うと「良かったな、これで自分のことを考えずに菩薩行ができるぞ」と。
これとよく似た内容が以下の本にありました。
この本は「禅マインド ビギナーズ・マインド」鈴木俊隆(Apple社のスティーブ・ジョブスが愛読した禅のバイブルと書評にあります)からとりました。
p71「良い父親は、良い父親ではない」と言います。どう言うことでしょうか。自分のことを良い父親と考えている人は、良い父親ではありません。自分を良い夫と考えている人は、良い夫ではありません。もし良い夫になろうと専心して努力すれば、自分を最悪の夫と考えていても、良い夫になります。痛みや、そのほかの身体の難しさのために座ることができないと考えても、厚い坐蒲や椅子を使って、とにかく座らなければなりません。・・・(それが)禅の真髄に至るでしょう。ー禅の真髄ー
ここまでがレジメの中で説明していますが、この項を全部紹介しないと消化不良になりそうなので全文を紹介します。
「禅の真髄」
ある経典に、四種類の馬の話があります(雑阿合経典、第三十三巻〈サンユクタ・アーガマ)。四種とは、車越した馬、優秀な馬、普通の馬、そして劣った馬です。卓越した馬は、鞭の音が聞こえる前に、騎手の意志にしたがって、早足や並足、あるいは左右に走ります。優秀な馬は、鞭がちょうど皮膚に届くか届かないかのうちに、卓越Lた馬と同じように走ります。普通の馬は、身体に鞭の痛みを感じたときに走ります。劣った馬は、痛みが骨の髄まで達したときに走ります。劣った馬が走ることを学ぶのに、どんなに大変かわかるでしょう。
この話を聞くと、誰もが卓越した馬になりたいと思います。卓越した馬になることはできなくても、せめて優秀な馬になりたいと思います。これがこの話の、また禅の通常の理解です。坐禅をすれば、自分が最高の馬か、劣った馬か、わかると考えます。しかしここには、禅についての誤解があります。坐禅の修行は最高の馬になるためのトレーニングだ、と考えるのであれば問題です。それは正しい理解ではありません。正しい方法で禅を修行すれば、最高の馬でも、一番劣った馬でも関係ありません。プツダの慈悲を考えてみれば、プッダがこの四種の馬に対してどう感じていたかは、すぐにわかるでしょう。プッダは、卓越した馬よりも、最悪の馬に対して、より慈悲を感じたはずです。
プッダの偉大な心とともに坐禅の修行をすると決意すると、最悪の馬こそがもっとも大事な馬だとわかります。自分が不完全であるからこそ、道を求める心のしっかりとした基礎ができるのです。完全に正しい姿勢で座る人は、およそ禅の本当の道、禅の実際の感じ、禅の真髄を見つけるのに時間がかかります。しかし、坐禅をするのは大変だ、非常に難しいと感じる人は、より大きな意味をそこに見つけるでしょう。そこで私は、ときに最高の馬は最悪の馬かもしれないし、最悪の馬は最高の馬になりえると考えるのです。
書道を学んでいると、あまり技術の巧みでない人が最良の書家になることがあります。あまりにも技術が巧みな人は、ある段階から先へ進むのに、壁にぶつかるのです。これは芸術でも、また禅でも、いえることです。人生でもそうなのです。私たちが禅のことを話すとき、「この人はよい」「この人はよくない」とは、普通の意味ではいえません。
坐禅でとる姿勢は、一人一人違います。人によっては、足を組むことができない人もいます。正しい姿勢がとれなくても、真に道を求める心を起こすことができれば、真の意味で禅を修行できることになります。座るのが難しい人のほうが、簡単に座ることのできる人よりも、道を求める心を目覚めさせるのは、やさしいのです。
私たちの毎日を振り返ってみると、いつも自分自身を恥じているようなところがあります。弟子の一人が手紙で「日めくりカレンダーを送ってくださいました。そこには毎日のすばらしい教訓が書かれています。それを守ろうと思いましたが、まだ年が明けて何回もたっていないのに、もう守ることができなくなりました!」と書いてきました。
道元禅師は「将錯就錯」(しょう・しゃく・じゅ・しゃく)といわれました。錯(しゃく)とは、「やりそこなう」「間違う」という意味です。将錯就錯とは、「間違いを間違いで受け継ぐ」という意味です。あるいは、間違いを続けてしまう、という意味です。
道元によれば、ずっと続く間違いが、禅でもありえます。禅の老師の一生とは、長い年月の将錯就錯ともいえるのです。それは、長い年月、間違えても間違えても、ひたむきに続ける、ということです。
「よい父親は、よい父親ではない」といいます。どういうことでしょうか。自分のことをよい父親であると考えている人は、よい父親ではありません。自分をよい夫であると考えている人は、よい夫ではありません。もしよい夫になろうと専心して努力すれば、自分を最悪の夫と考えていても、よい夫になりえます。痛みや、そのほかの身体の難しさのために座ることができないと考えても、厚い坐蒲や椅子を使って、とにかく座らなければなりません。あをたが最悪の馬でも、禅の真髄に至るでしょう。
あなたの子どもが、重い病にかかっているとします。なにをしたらよいのかわかりません。ベッドに横になっていることもできません。普通、一番快適な場所といえば、暖かい、安楽なベッドでしょうが、今は、心の苦しみのために、休むことすらできません。立ち上がって歩き回りますが、役に立ちません。苦しみを和らげる一番の道は、坐禅をすることなのです。心が混乱し、姿勢が悪くなっていてもです。こうした困難なときに、坐禅をしたことのない人は、禅を学ぶ者とはいえません。ほかのどんな行為も、あなたの苦しみを和らげることはできません。ほかのどんな姿勢も、自分の困難を受け入れる力を持たないのです。しかし、長い、困難な修行で確立した坐禅の姿勢によって、あなたの心と身体は、好き、嫌い、よい、悪いなしに、あるがままに受け入れる偉大な力を持つのです。
惨めに感じたときは、座るほうがよいのです。自分の問題を受け入れて、それに対処するには、ほかに道はありません。そのとき、あなたがよい馬であるのか、悪い馬であるのか、姿勢がよいか悪いかは、問題外です。誰もが、坐禅を修行できます。そのようにして、自分の問題に対処し、受け入れるのです。
自分の問題の中で座っていると、どちらがよりリアルでしょうか。あなたの問題ですか。あなた自身ですか。「今、ここにいる」という気づきだけが、究極の事実なのです。坐禅によって把握するのは、このポイントなのです。よい状況、惨めな状況の連続の中で、修行を続けることによって、あなたは、禅の真髄を悟り、真の強さを獲得するでしょう。