2/24 土曜日
今日はラバウルへ上陸します。ガダルカナル島のホニアラと違って町の規模はかなり小さい感じです。町はココポの方が発展して、ラバウルはさびれる一方、と聞きました。なんとか行きたいと思っていたけど、タクシーは少ない、急きょ、オプショナルツアーの空席待ちをゲットして14人乗りのバスで出発しました。
ガダルカナルの時は暑くて足の力ではどうにもならないのはわかったので賢明な選択です。ただ高いのです。町の中はいちおう、アスファルトですが、それもところどころ壊れています。町を外れると、ジャングルに広い道を通した感じで、デコボコ道が続きます。いちおうはゆっくり走ってくれますが、車の中はフライパンの中の豆粒みたいになります。
ココポまで30分走り市場を見ました。知らない果物、野菜が所狭しとと、個人個人が並べているようです。
ヤシの実を飲みました。鉈みたいなものでカット、そこから飲みますが生暖かくて薄い甘み、しおっけ、酸味が入り混じった味です。
戦争博物館や日本軍の洞窟や地下司令部など見学しました。戦車も見ましたが小さいのです。一人乗りかとも思うくらいですが3人入るといいます。映画でドイツ軍戦車タイガーは大きく写っていますがあまりの小ささに驚きでした。
記念館では野ざらしの戦車、機関銃、大砲、ヘルメット、爆弾がありましたが、朽ちるのも時間の問題のようです。
ラバウルはほとんど山に迫って、平地が少ないところに、人家があります。時にはジャングルの中で暮らしている人たちもいて、生計を心配します。
それぞれの観光地?(何もない)では現地の人たち前もって土産物を置いたり、歌を歌ったりして歓迎してくれます。全部、撤退していった兵隊が彼らに教えたそうです。
最後の寄港地もこのラバウルで終わり、後は硫黄島など遊覧しながら一路横浜です。さすが甲板に出ると南太平洋、暑い。しかし船の中はどこも寒い。欧米人と日本人の皮膚感覚が異なるのでしょう。
2/22 木曜日
2/22 木曜日
影が消える現象。今日は正午頃に太陽が私たちのほぼ真上に来るため、一時的に影が見えなくなる現象が発生します。これは位置の緯度と太陽の緯度「赤緯」が重なるからです。
元大日本帝国陸軍の将兵2万人が眠るガダルカナルの町を歩きました。悪路が多いせいかジープやランドクルーザータイプの車が多いのに気がつきます。歩道も車道もありません。アスファルトは壊れ、白い土ぼこりがもうもうとしています。そして暑い。とにかく暑い。健脚の人たちと大きな通り(メンダナav.)に出て歩くけれど、コリャ危ないと思い、同行をやめ、港周辺をぶらつくことにしました。
日陰には現地の人がたむろしています。ヒマそうに往来、私たち外人を興味深く見ています。ポリネシア人は色が濃く、暑さに強いようです。この暑さは本州の真夏と同じですが私にはついていけません。そして彼らはゴムぞうりか裸足です。地面だって暑いのにたくましく思います。小さいころ、真夏の盛りの頃、アスファルトが溶けていたのを思い出します。
半袖のシャツは汗でびっしょり、持ってきた手ぬぐいとしぼれるくらいです。
一度休憩と思い、船に戻ったら、もうあの暑さの中に行く気力も無くしてしまい、ひたすら昼寝をしました。
私が出かけたちょっと先に破壊した輸送船の76年前の姿があったと友人に言われ写真を拝借しました。
夜になって総勢10人によるガダルカナルの民族衣装による伝統音楽・ダンスのパフォーマンスを鑑賞しました。彼らは伝統民族の歴史として、日本、スェーデン、フランスなど世界中で公演していると説明を受けました。
2/21 水曜日
2/21 水曜日
南太平洋を船は進んでいます。さすが暑いです。船の中はクーラーをガンガン効かして、やっぱり寒いです。海は凪であります。明日はガダルカナル島のホニアラに着きます。
ホニアラはソロモン諸島共和国の首都であります。
上陸に前もって、太平洋戦争をおさらいします。
1942年11月、太平洋戦争、ミクロネシア戦線、ガダルカナル島では36000人の将兵をこの島に上陸させた。米軍の激しい戦いで補給船、航空機は多数沈没破壊。米軍側は初めて海兵隊を導入した。飛行場の占領の戦いで、私たちが入港するホニアラの湾は「アイアンボトムサウンド」と言われるほど残骸が眠っている。そして、将兵たちの補給船が消滅したことで、24000人が戦病死「餓死」した。この島のことを「餓島」という。そしてある人は言う。「ガダルカナルは帝国陸軍の墓地である」と。
大本営は計画性のない戦争に突入した。真珠湾攻撃である。当初から日清、日露の時のような「仲介」を期待していた。昭和初期、極東の小さな島国である日本は列強に振り回され、「調停」を期待しながら日本も太平洋戦争に進んだ。「調停」の甘い汁は日露戦争に遡る。軍事費が完全になくなっていた時に偶然、ロシア革命による戦争遂行の厭世気分でアメリカの調停により、日本は戦勝国になった。その調子で太平洋戦争を始めた。山本五十六でさえ戦争を反対していたが、調停もいつまでも期待した。日本海軍は日露戦争時の日本海会戦を夢見て、洋上決戦、巨艦決戦を試みるが、アメリカはレーダーを開発、目で見えなくても攻撃でき、それも航空機主力戦となった。そして島伝い作戦で、東京空襲、沖縄戦と続いた。
無責任な戦争遂行、計画性が欠如した作戦。そして責任者不在の組織。これが未曾有の戦争に突入させた。
その、ガダルカナル、ホニアラを心に手を合わせ、しっかりと歩いてみようも思います。
2/20 火曜日
2/20 火曜日
今までのワイファイはヌメアて使えなくなり、あと横浜までは衛星通信を使ってプログ、ネットにつないでいくことになります。
もう、帰国まで二週間を切っています。もう少しだと思うのですが、ヌメアから成田空港まで直行便があるようで帰国する人がいました。かのセレで二人組みの女性の一人が不眠でどうにもならないとのこと。残念です。周りの人に聞くと、やはり帰りたいという人もいれば、帰ったら家はいこごちが悪いので、このままずっと乗っていたいという人もいます。
そろそろ飽きてきたという人が大半です。メインのオセアニアは終わりましたからね。明後日22日はガダルカナル、そして24日はサイパンです。
乗っている、同世代のひとにはプロジェクトXも太平戦争も時代錯誤だと言います。
今は狭い島国で、どうのこうのというより、世界の中の一部なのだから日本を意識しないほうがいい、とか何を大昔のことを掘り返して気分が悪くなるできごと思い出したくないとか。
ナショナリズムとグローバリズムのバランが大切だと思います。また侵略国家に仲間入りしようと、大国に拒否されたこと、そして関わった国々の人々がたくさんの同胞とともに亡くなつだこと、などとりあげると無関心では入られません。
今日はブリッジ見学会がありました。10人毎に30分の元船長と紹介された方から説明を受けました。
船の横方向の端から端までが奥行き10メートルくらいの部屋が船をコントロールする「ブリッジ」と言われているところです。海図は一切なく、自動運転と衛星通信で動いているとのこと。当直は最低二人、多分全員パナマ人かもしれません。(船籍がパナマ)航海士は6名。船長はほとんどブリッジに上がってこないと言います。
このブリッジに上がると進路方向はすべて見渡せます。特に端によるとスカイタワーの足元が抜けて行くような気分になります。
見学者から海賊に襲われたことがあるのかとか、銃器はあるのかと質問がありました。二回体験した、機関銃撃ち込まれ追いつかれれば終わりと思いスピードあげて逃げたとか。船の中には銃器は一切ない、戦うと不利な立場になるからと言います。現代は各国の保安部隊が船を守っているそうです。
他にも安全施設、避難船の話があり、37年経っているが使ったことないとも。頼もしい話です。後10日間安心して船旅を楽しみます。
2/19
2/1 ニューカレドニア、ヌメアに着岸。この島はフランス領で、天国に一番近い島で有名です。小さな町だと思っていましたが、なかなか大きくて、施設もたくさんあります。ただwifeが繋がりません。あとで気がついたのですが到着ビルではフリーwifeが使えたそうな。この日はチュチュトレインという電車型バスに乗って市内観光する予定がもっと安くて、日本人がたくさん申し込んでいた観光バスで3時間の市内観光です。月曜日は休みだけれど、このバスは入場できました。大きな敷地です。
ちなみにオーストラリアもニュージーランドもそうてすが、閉店時間が5時頃です。中に人がいるのにカギがかかってしまいます。そしてその頃は帰宅ラッシュでバスも電車も道路も混雑しています。彼らはアフターファイブを楽しみます。レストランでビールを飲む人や食事を楽しむ人がたくさんいます。飲食店は10時頃までやっています。
話しをヌメアに戻します。quin toroというお台場には大砲が2基、海に向かって備え付けられています。太平洋戦争の時の前線だったのでしょう。場所は変わりますが教会も質素だけれどもありました。小さくてもゴシック調の建物です。
バスは景色のいいところで止めてくれます。海にはヨットかレジャーボートがどこでも見れます。日差しは強く、今まで寒さ対策ばかり、していたのですが、さすがここは南太平洋。
2/18
2/18 日曜日
ベッドが下から上の段に変わった。上はハシゴを使って登らなければならない。腕の筋力を使うので筋トレになります。上がってしまえばあとは同じで、下よりも密閉感があります。
船はハリケン域に入っているためか大きな波がうねりとなって船とぶつかり白い波となって砕けていきます。
明日寄港するヌーメアはニューカドレニアにあり、フランス領です。そして入港するとき、ハリケンが過ぎた後なので、波がまだ高いようです。気温はさすが南太平洋、暖かくなりました。
ネットが十分使えないので何も調べることができませんが、ヘミングウェイの「老人と海」のローケーションだったような気がします。
ところで船の中ではいろいろな催しがあり昨日は「パレカレカ運動会」がありました。はじめは参加マンマンだったのですが、同時進行の映画「オデッセイ」があり、そして午後にはアクション映画「ラストミッション」があり誘惑に負けて、参加しませんでした。
このように、船の中では映画をいろいろ見せてくれます。朝は「プロジェクトX」で昔の日本再建につながる番組を上映します。大変人気で小さなスペースがいっぱいになり、ラストのナレータでは目を抑える人が続出しています。会場で見ている人の年代が、同じくらいなのでしょう。20万トンタンカー製造の話、名神高速道路を作る話、安かろう、悪かろうを外国で返上したソニーやマツシタ、日産、MINOLTAなどの営業マンの話、新幹線を263km/hrで走らす内容です。
確かに、オセアニアで店の人やタクシーの運転手さんたちでも日本に行った、働いたなど言ってくれます。そして寿司、うどん、ぞば、丼は中身は別にしても無い町はありません。小さな島国であること、戦争にコテンパンに負けたことがエネルギーになって世界のニッポンになれたことに、先駆者の働きに感謝します。今日は青函トンネルの話です、また泣かしてくれるでしょう。
2/16
2/16金曜
オークランドの一日はばったり知人に会い、rangitoto islandに行きませんかと誘われました。この島は400年前に噴火し、いたるところに溶岩流があります。この島全体が保存され観光的なものは何もありません。ひたすら山登りです。
登ってくる人人たちは若い人ばかり。年寄りグループは私たち三人だけでした。きつかったけど山頂のパノラマは限りなく広がっていきます。
バテバテで4時頃オークランドに戻り、アイスクリームを食べ船に汽船しました。
今回のオークランドは街をまったく巡っていません。はじめは博物館とか、美術館とか、スカイタワー、いろいろ算段しましたが、行けずに残念です。
この船も20:00出航なので急いでブログを書き上げました。
2/15
2/15明日はオークランドに入港します。ニュジーランドの北島と南島の間を西から東へ抜けるのです。少し暖かさが戻ったような気がし、今は春の装いです。
船の中では社交ダンス、囲碁、将棋、麻雀が盛んで、選手権大会もあります。昨日の夜はパーティディと称しみなさん着飾ってディナーに着きます。私も同宿者も知人も普通の格好で、ジャージ、サンダル「御法度」のはずがいつものように食事ができたようです。そしてワインも無料で振舞われたとか。わたしはちょうどお腹壊してパスの状態でした。考えてみたら、美味しいところではいつもこんな目にあいます。歓迎パーティーではステーキが出たのに、船酔いでアウト。そして今回です。残念です。
あすは最後の文明国、オークランド。ステーキ食べるぞと意気込んでいましたが、これは食べれそうでありません。
2/13
2/11
2/11 日曜日
昼過ぎにリトルトンに到着。3000人の小さな町です。クライストチャーチの外港としての町です。下船後しばらくリトルトンの町を散策。小さなマーケットもあります。「生」と書いた寿司屋もあります。日本にゆかりのある人なのでしょう。こちらの寿司はほとんど生寿司はありません、のり巻きであったり、シャリの上にてんぷらみたいなものがのっています。リトルトンの繁華街はその「通り」だけであとは住宅地でした。雨が降る中、クライストチャーチへ行くか、迷いましたが、仲間から外れ、バスで20分くらい揺られてニュジーランド第二の都市に着きました。
4ドルです。乗合いバスで30分に一本なので1000人は無理だということで、ピースボート側ではバスをチャーター10台予約しましたが往復3500¥もします。これは辞退しました。
まず行くところは「カンタベリー博物館」です。バスから降りた日本人はどんどん少なくなり、あれっと思ったときは誰もいません。ここはどこ?と焦れば焦るほどわからなくなり、テルミーミュージアム?を2回ほど繰り返したら、日本人、中国人がいっぱいいました。やれやれ。無料です。写真可です。メルボルンと同じく、生命、人類の歴史、世界の歴史では、江戸時代のサムライ、浮世絵などが展示してあります。
数年前(2011年)のカンタベリ大地震で日本人も被害にあったところですが、被害の記念として、カゼラルスクエアとして、崩壊されたままの建物であります。
ようやく現在地を確認してから、カードボートカセドラルという紙で作られた教会を訪問しました。ここはカゼラルスクエアにあった仮設大聖堂です。
せっかく、街に来たのだからとピザとコーラを注文。周りが、若いカップルばっかりの小さなお店。ピザを2ピース注文していたので、同様に頼みまします。かなり量が多い、「失敗」と心うちです。
そして無事にバスターミナルに到着。バスにて帰港しました。
船は23時にリトルトン港を大きな汽笛を鳴らして出航を夢の中で聴いた気がします。
実はニュジーランド当局の検閲のために入港したわけで、これから再びフィヨルドにもどることになりました。