指導員養成を温泉地で開催
○○先生のお世話でヨガを深く学ぶという趣旨の「指導員養成基礎」を温泉地で開催した。参加者は長年、ヨガをやっている方が多く、レベルはかなり高い人たちが集まった。教える立場の私は冷や汗ものだった。
ヨガ指導は本来、教えるほうも教えられるほうもないものだと思う。互いに学びあう姿勢が大事だ。ヨガは人間性を学んでいくものである。そこに上下の立場はない。たまたま立場を演じているだけである。人生経験の豊かな人もいれば年齢は重ねているけど変な人もいる。その逆の人もいる。身体の硬さ、柔らかさにいたっては千差万別だ。真摯な努力こそが称えられる。
ヨガの学びで大事なのは思いである。師は私たちに思いを教えてくださった。私はその思いがあって人にヨガを伝えることができた。そして自分自身が叉学ぶことができた。師の教えは「生命即神」「感謝・懺悔・下座・奉仕」である。深い深い哲学である。行法哲学である。奉仕の部分は何ができるか、伝えられるか、という点である。自分が無条件で行うことができるか。そのことが尊いことである。
「一隅を照らす」を最近、比叡山で知った。天台宗の開祖の最澄は「一隅を照らす」僧を育てたそうな。そして彼らは日本文化を創った。その比叡山から親鸞、日蓮など名僧が生まれた。
さて研修の話にもどす。かなり濃密なスケジュールの中で受ける側も指導する側もほっとするのは朝の戸外アサナである。暑い日中はひたすら敢えてクーラーのない大きな部屋でヨガのお勉強をした。時にはアサナを作ったがやっぱり外がいい。それも誰もいない森の中がひんやりとしている。
私たちは自然にこだわった旅館を朝6時半に出て山手の方の公園へ行く。そこは深い森で川があり小さな滝、コテッジがありでヨガ修行するのに申し分ないところだ。鼻の中を温塩水で洗うネイティというのをして心身を清め、思い思いの場所でアサナや瞑想にふける。これがなんともいえないほど気分がいい。行者が深山で修行をしているみたいだ。
サルからヒトになってからも10万年以上も山や森、川、海の近くで私たちのご先祖様は過ごしてきたのだ。無意識の中に自然の中で何もしない時間が過ぎていくことに郷愁を感じるのは私だけではない。登山や海でのレジャーとは違う時間である。何もしないことが目的である。そして何もしないでアサナや瞑想をつくるというところに意味がある。
時間があっという間に過ぎ去っていく。もっといたいという気持ちを振り切って朝の授業のために旅館に戻った。
(2005-09-06)