瞑想−座禅
私は座禅について専門家でも僧侶でもないので見よう見まねの域しか達していない。それでも自分で座るときは瞑想ではなく、ただ座りたいから座ることに徹している。当然、雑念も妄想も湯水のように出てくるし、眠くもなるが、座ることに目的を置いてただ時間が過ぎるのを待っている。高尚な「無」なんて考えたこともない。時には呼吸に意識をおいたり、呼吸をコントロールしたり、体の部位に意識をおくことがあっても、座るということだけが目的である。
こんなやり方でも、座禅をやり始めた頃もそうだったが、けっこう満足感や達成感がある。悟りはまだまだである。座禅では「ため」を嫌う。この「ため」は禅用語の「現世利益ゲンゼリヤク」ということで座禅に目的をもってはいけないらしい。それは健康のためとか集中力を養うためとか、綺麗になるためとかである。それは邪念ということになる。あくまでも座ることだけを目的にし、結果とする。「何も役に立たないが座りなさい(只管打座)」といい続けて1,000年の歴史を日本で経てきた。当然、何かがあるのは間違いない。
私たちの生活は「現世利益ゲンゼリヤク」に徹している。一生懸命勉強しなさい、そうすれば金持ちになるよ、栄養のあるものたくさん食べなさい(体を鍛えなさい)、そうすれば健康なるよ、この宗教を信じなさい、そうすれば幸せになるよ。この「ため」になるという幻想でどれだけ裏切られてきたか。ヨガもそうかもしれない。一生懸命ヨガをやって柔らかくしようと思ったけど痛くてギブアップ。頭皮を手でたたいたら健康にいいからとがんばって家で毎日やっていたらめまいがしてきた。などなどである。
大事なことは、楽しいか、おいしいか、好きか、気持ちいいかであって、「ため」を求めるとどうしても心のゆがみになってしまう。今は物はいくらでも与えられる時代であるが心が淋しい時代でもある。感動もなく喜びも少ない。「ため」が優先されるからであろう。役に立つことばかり追い求めると何も残らないが、役に立たないことがいつのまにか大きな糧になるといったことを何かで読んだことがある。
あるとき、師からヨガとは何か、「損をする練習だよ」と言われたことがある。いままで得(とく)しようといつも目鼻を効かして来て得したことあったか、それよりも自分の嫌なことを捜し求めると能力的にバランスが取れるんだ。嫌なことは自分に欠けている部分で無意識に避けて通っている。嫌なこと、不都合なことは自分にとって損と写る。それを探しながら行動するとよい。ヨガアサナでもそうだ。得意なポーズばかりでなく、嫌なポーズを探すのだ。究極は結婚相手でも嫌いな人がいい、そうすれば毎日が修業であり、自分の人間完成に役に立つ、そんなことを言われた。
瞑想や座禅に興味のある人と接することが多いが「野弧禅」に陥っている人には閉口する。「野弧禅」とは自ら悟ったと言いふらす人のことを言う。きつねに化かされたことを言うのだろう。瞑想や禅の効用は計り知れないかもしれないが、それは人格や生活態度に表れてくるもので悟ると言うことを口にすべきでないと思う。「ため」の瞑想が心身に悪影響を及ぼすことは長い歴史の中で数々の実例を挙げている。くれぐれも気持ちいいからとか座りたいからで続けていってほしい。
(2004-09-22)