瞑想シリーズ1
(レッスン一覧 46.瞑想について 62.めい想録も参照)
今はさまざまなヨガがある。日本の中でも、世界的にもヨガの指導者の数だけあるのではないか。
ヨガの発祥の地はインドであることはよく知られている。「ヨガとは何か」というのを前に書いたことがある。もう一度それを載せてみる。
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インドでは古くから瞑想にふける風習があり、その起源は4000年前にさかのぼる。当時インダス文明時代があり、その遺跡からヨガの瞑想やポーズであろうと思われる彫刻や像が出土した。その瞑想にふける風習は後に哲学、宗教的な意味合い強くなった。宇宙と自分の存在を問う、梵我一如の哲学はウパニシャッド哲学といわれるし、バラモン教とそれに対抗するための仏教やジャイナ教などインド発祥の世界的宗教の誕生にヨガが関ってきた。
ヨガは「結い・ユイ」で表わすように結ぶ、調和、制御などを意味することである。 そしてヨガは心とからだの調和のために、呼吸を整え、五感という感覚を磨いて心身統一に役立てる修業や方法を言う。
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今でもインドの人たちにヨガをやっているかと聞くともちろんやっていると答える。しかしその彼らのヨガは瞑想を意味するし、日本では体操を意味する。この違いは大きい。欧米ではまだ瞑想的要素がかなり残っていると思う。日本でのヨガは本来のヨガと異質なものになってしまったのだろうか。
日本人は「現世利益」に長けた民族だと聞く。ヨガが心身の調和で健康によいとわかると修養法ではなく健康法に取り込んでしまう。たいした人たちである。
そこで私も少しは未知なる理屈を超えた、また「現世利益」ならぬといっても期待はしているが「瞑想」を教室で少しづつやっている。いつかまとまった時間でやってみたいものだが。
私にとって「瞑想」の手始めは社員研修の時の座禅であった。世俗から離れた海の家という研修所で3ヶ月間、毎日1時間の座禅をし、総仕上げは宇治「黄檗宗万福寺」の青少年研修センターで警策を持ったお坊さんの下で短期間ではあるがお坊さんのような生活を送った。
水を大切にということで食器を洗わせてくれず、匂いがついてきたときには気分が悪くて参った。最後の仕上げは2時間、一日に3回はかなりきつかった。警策の厳しさは背中に5ミリくらいのみみずばれがたすき状に腫れあがった。このくらいの強い刺激でないと2時間がもたないのだということもそのときは理解していた。
縁あって、数年後、所属していた沖ヨガ道場からそのお寺で研修がありそのお坊さんに会えたことは因縁を感じた。その後も座禅は札幌の臨済宗や曹洞宗のお寺で所属こそしないが、他の門下生の人たちと一緒に座らせてもらった。
ヨガを指導させてもらうようになってからはヨガ道場やヨガ研修会では「瞑想」はなくてはならないものになった。しかし教室指導ではいろいろな理由をつけては、いまもそうだが短時間のものばかりである。
私の瞑想法の指導は独自のものもあるが、自分の中に大きな影響があるのは「座禅」と「ヨガ道場の沖正弘師」や札幌研修会で来道された「タチヤ博士のプレクシャメディテーション」、そして「もとはこちら会の平井先生」の影響は大きい。これから何回かのシリーズで瞑想の方法などを紹介していきたい。
(つづく)
(2004-09-09)