言葉とイメージ(考えるということ)


言葉の役目は二つある。一つは伝えるという役目。一つは考えるための道具としての役目である。あとのほうの考えるた めのと言うのは過去を振り返ったり、未来を想像するための道具である。

言葉がなかったら、伝えることだけでなく、人の基本的な学習能力さえ失われる。それを考えると三つの苦を持って成長 したヘレン・ケラーの偉大さがすごいことだとわかる。見えない、聞こえない、そして話ができない。何を頼りに外の世 界を知るのか。家庭教師についたサリバン女史は献身的な教育で皮膚感覚を頼りにこれが人形、そしてその文字、これが 水、そしてその文字と言うふうに教えていった。覚えた言葉を頼りに、感知力を磨いて話すことまでもできるようになっ た。言葉を得て学び続けることのすばらしさである。

サリバン女史の訓練の当初、ヘレン・ケラーは言葉を数コぐらいしか知らなかった。この世界にものに名前がついている ということを知らなかったわけである。それは識別する能力でもある。人には始めは大きなジャンルから、それから微妙 な感覚を見分ける能力が備わっている。その基本は言葉なのである。

皮膚感覚は動きの中でも一種の言葉である。自分自身に伝える言葉である。それはイメージを作り出し,過去にあったでき ごとを如実に再現する。この感覚は気持ちがいいのか、それとも不快なのか。それに応じてからだ全体が弛緩、緊張と反 応する。

皮膚感覚は快・不快がある。快は自分自身を高揚するための積極性と安心感を導びき、次につながるイメージ、創造力を かき立てる。それに反して不快は心身の全体でもって拒否する。心身を硬くするだけでなくその感覚を閉じ込めたり、忘 れさせたりする。動きの中で今,おきている感覚は快か不快かの選択は自分の中にある。イメージを豊かにすることで不快 を快にすることもできる。

それは自分のからだとの対話でもある。ヨガのポーズをするとき、いい動きをしているかどうか、微妙に首や肩がどの方 向に動くのか。気持ちのいい状態の時に、識別する能力を発揮することができる。スポーツのときだってそうだ。自分を 責めたり、言い聞かせたりしないで自分の中の気持ちのいいときに感じる動きの感覚、自分の内なる声と話をすることで 内在智が目覚める。
(2003-12-10)

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