3/4

朝起きると、ゆっくりと横浜港に向かっています。やたらクレーンが多く、他の国には見られない光景でした。やっぱり横浜港は貿易港の特色を強く出ています。シドニーも大きな港ですが観光用の港とと感じました。基隆もクレーンが多くありました。

港に入っていくとたくさんの大小取り混ぜた船が行き来しているもの他には見れれませんでした。ブリッジをくぐるとそこは港です。やれやれといった感じがまず出ました。

いろいろな人にまたクールーズしますかという問いにこれまたいろいろです。次をすでに申し込んでいる人もいれば、途中で帰りたいという人も。私は寄港地にもう少し長く居たい、あまりにもさっさと通り過ぎた感じがありました。それはそれでいいのですが、今度はここをじっくりいって見たいという選択する材料が出来たと思います。

何はともあれ、日本に帰ってきた。羽田空港でまずそばを食べました。味付けの全く違う蕎麦は、日本ならではです。

今までご拙い文章のブログの閲覧をありがとうございました。

後日、誤字脱字、写真など吟味して再登場することをお約束します。

羽田空港、出発ロビーの待合室にて。

3/3 土曜日

船はドンドン北上しています。気温もずいぶん下がりました。8ころ鳥島が見え、そして午後には八丈島も八丈小島の間を通過しました。もうこの辺りから携帯電話の通話ができます。海の上なのにすごいと思います。

発送用の荷物の梱包を終え、大型の荷物も係員の人が税関審査まで持って行ってくれます。部屋にたくさんあった物がなくなりスッキリしました。

あとは手荷物として帰宅してすぐ使うトランク、パソコンほかのザック、カメラバッグがあります。ヨガマットは廃棄、寝まき兼ヨガウエアも廃棄、使い古した物すべて廃棄。

さて八丈島は家の所々から暖房用なのか煙があちこちから出ています。住んでいる人は8000人くらいですから大きな町です。

3/2金曜日

昨日の夜はファウェルセレモニーでワインを片手におつかれさま、でしたありがとうございましたと、船長以下スタッフの紹介があり、カンパイしました。二杯目は残念ながらありません。船を動かす組織として機関長、航海士、船のメインテナンス作業、ホテル機能、各部屋のハウスキーパー担当責任者とレストラン機能「コック、ウェイター」の責任者、医師、看護師など10名くらい、そしてピースポート関係者、通訳、船の中での企画担当者、毎日の船内新聞や記録、テレビ情報担当者など50名くらいの紹介がありました。
そしてディナー会場ではコック、ウェイター、ハウスキーパー、総勢250名の紹介があり、彼らの「We are the world」は圧巻でした。アンコールまで出ました。
以上のところ写真はありません。
着替えをしたので写真関係忘れました。かえすがえす残念です。
食事は前菜がいくつか、そして牛胸のサイコロステーキ、これはめちゃくちゃ美味しかった。
料理担当者はこういった料理を毎日、朝昼晩3回3カ所で時には内容が違うものをスタッフ入れて1400人分を作るのですからすごいものです。そして火を使うことはできません。すべて蒸気、電子レンジで作ると説明がありました。
さぁ、今日も時間調整しました。これで日本国内と同じになります。
8時から硫黄島を周航します。最後のイベントになります。しっかり写真を撮ります。硫黄島は南硫黄島というのがあって海岸から円錐形にそびえています。そこから1時間経つと平らな島と端に山がある島これが硫黄島です。山はすり鉢山と呼ばれ米軍の艦砲射撃で形が変わってしまったと言われています。
ここは現在自衛隊基地になっていて民間人は入れないそうです。韓国みたいにいつのまにか島を占領されかねません。日米の激戦地でもありました。
船は横浜に向かって北上中です。日本の寒波はここまで影響があり、甲板も船内も寒いです。皆さんダウンを着たりジャンパー姿が多くなりました。
船の中は催しはすべて完了してヒマヒマな人が多いです。そんな中船では乗客以外の関係者による避難訓練をしています。すべて英語です。「船長から船体放棄の指示がありました。関係者は救命胴衣を着用してそれぞれの部署で待機してください」とアナウンスや信号が鳴り響いています。
実際、そのようになればゾッとします。

2/28~3/1

2/28 水曜日
今日の昼、船はグアム、サイパンの横を通って北上しています。同時に波が荒れてきました。あと4泊で離船です。船の中はそんな慌ただしい雰囲気です。まだ見所は硫黄島です。テレビ映画でもクリントイーストウッド監督の硫黄島を題材にしたシリーズを放映していました。
ここだけでなく、南太平洋の島々では日本兵だけでなく、アメリカ人も現地の人も大きな被害を受けました。
食事について、1000人以上の人に提供するのですが、いつも手がこんでいます。簡単にすませるところとディナー形式があります。ディナーでは前菜
メインデッシユだけでテーブルに皿が4つくらい並びます。そしてライスであったり、パンであったりテーマによって変わります。最後は甘みのお菓子かケーキか果物が付きます。そして飲み物です。アルコールを飲む人は注文するともってきてくれ、キープしてあるものは氷、又はお湯などとサービス満点です。お金はかかりますが。。

3/1 木曜日
気温は下がり、波が荒くなりました。しかしまだ外のデッキに出て海を眺められるくらいです。ゆっくりした、大きな波が船を襲うたびに大きく揺れます。あんまりスタビライザー(安定翼)は効いていないようです。今日は船長主催のファウェル セレモニーがあります。いつもは綿パン、Tシャツなどですが今日はプレザーでも着込んでオシャレするかなと、ただ服が変わっただけのいでたちです。
ディナー形式の部屋は500人しか入りません。それでIDカードの番号で5時からの人、7時からの人に分けられます。
このIDカードですが、実によくできてて、部屋に入る時のキー、下船、乗船のチェック、自販機、買い物などすべてこのカードです。買い物の時はクレジットカードから連動され引き落とされます。船の中では一切現金不要です。まとまった請求書が恐ろしいですが。

2/26 月曜日

2/26 月曜日
昨日の夜10時に船は赤道を越え一路、横浜に向かっています。
船の中ではそろそろ、各種発表会の準備に忙しいようです。水彩画、社交ダンス、玉すだれ、各種楽器演奏、フォークダンス、編み物、小倉祇園太鼓、等々。
私はハーモニカをはじめ少しやり、パース沖のフリーマントルで8ドルで買ったとたんに興味をなくし、引き出し奥にしまってしまいました。ハーモニカは小さいころ鳴らしたこともあり、「感」で鳴らすもの、何も習わなくてもと思ってしまったのです。ただ勉強になったのは舌で目的音以外をふさぐのが正しい吹き方だと教えられました。
発表会の花形は社交ダンスです。練習を見ていてもカッコイイのです。しかしペアーの練習は大変で時間さえあれば、あちらこちらで練習しています。いったんペアーができると一人でするのと違っていいかげんにすることはできません。その苛酷な練習の結果、晴れ舞台で踊ることができるのです。関わらなくて良かったと見ていて思いました。
ディナーはドイツ料理でした。前菜は(クレームブリュレ〕野菜と何かをキザンなもの、メインは豚肉の揚げもの(ポークシュニッツェル)ですが、薄くてぞうりの大きなものでした。食べれるかなと不安でしたが薄いのととんかつソース、マヨネーズを基調にしたソースがうまくてあっという間になくなつてしまいました。
そして今日は発表会です。水彩画だけでなく、切り絵や人形などの作品展が所狭しとと飾ってあります。
そして36の団体の披露です。友人がハーモニカ同好会に入っているので、写真におさめました。

2/24 土曜日

2/24 土曜日
今日はラバウルへ上陸します。ガダルカナル島のホニアラと違って町の規模はかなり小さい感じです。町はココポの方が発展して、ラバウルはさびれる一方、と聞きました。なんとか行きたいと思っていたけど、タクシーは少ない、急きょ、オプショナルツアーの空席待ちをゲットして14人乗りのバスで出発しました。
ガダルカナルの時は暑くて足の力ではどうにもならないのはわかったので賢明な選択です。ただ高いのです。町の中はいちおう、アスファルトですが、それもところどころ壊れています。町を外れると、ジャングルに広い道を通した感じで、デコボコ道が続きます。いちおうはゆっくり走ってくれますが、車の中はフライパンの中の豆粒みたいになります。
ココポまで30分走り市場を見ました。知らない果物、野菜が所狭しとと、個人個人が並べているようです。
ヤシの実を飲みました。鉈みたいなものでカット、そこから飲みますが生暖かくて薄い甘み、しおっけ、酸味が入り混じった味です。
戦争博物館や日本軍の洞窟や地下司令部など見学しました。戦車も見ましたが小さいのです。一人乗りかとも思うくらいですが3人入るといいます。映画でドイツ軍戦車タイガーは大きく写っていますがあまりの小ささに驚きでした。
記念館では野ざらしの戦車、機関銃、大砲、ヘルメット、爆弾がありましたが、朽ちるのも時間の問題のようです。
ラバウルはほとんど山に迫って、平地が少ないところに、人家があります。時にはジャングルの中で暮らしている人たちもいて、生計を心配します。
それぞれの観光地?(何もない)では現地の人たち前もって土産物を置いたり、歌を歌ったりして歓迎してくれます。全部、撤退していった兵隊が彼らに教えたそうです。
最後の寄港地もこのラバウルで終わり、後は硫黄島など遊覧しながら一路横浜です。さすが甲板に出ると南太平洋、暑い。しかし船の中はどこも寒い。欧米人と日本人の皮膚感覚が異なるのでしょう。

2/22 木曜日

2/22 木曜日
影が消える現象。今日は正午頃に太陽が私たちのほぼ真上に来るため、一時的に影が見えなくなる現象が発生します。これは位置の緯度と太陽の緯度「赤緯」が重なるからです。
元大日本帝国陸軍の将兵2万人が眠るガダルカナルの町を歩きました。悪路が多いせいかジープやランドクルーザータイプの車が多いのに気がつきます。歩道も車道もありません。アスファルトは壊れ、白い土ぼこりがもうもうとしています。そして暑い。とにかく暑い。健脚の人たちと大きな通り(メンダナav.)に出て歩くけれど、コリャ危ないと思い、同行をやめ、港周辺をぶらつくことにしました。
日陰には現地の人がたむろしています。ヒマそうに往来、私たち外人を興味深く見ています。ポリネシア人は色が濃く、暑さに強いようです。この暑さは本州の真夏と同じですが私にはついていけません。そして彼らはゴムぞうりか裸足です。地面だって暑いのにたくましく思います。小さいころ、真夏の盛りの頃、アスファルトが溶けていたのを思い出します。
半袖のシャツは汗でびっしょり、持ってきた手ぬぐいとしぼれるくらいです。
一度休憩と思い、船に戻ったら、もうあの暑さの中に行く気力も無くしてしまい、ひたすら昼寝をしました。
私が出かけたちょっと先に破壊した輸送船の76年前の姿があったと友人に言われ写真を拝借しました。
夜になって総勢10人によるガダルカナルの民族衣装による伝統音楽・ダンスのパフォーマンスを鑑賞しました。彼らは伝統民族の歴史として、日本、スェーデン、フランスなど世界中で公演していると説明を受けました。

2/21 水曜日

2/21 水曜日
南太平洋を船は進んでいます。さすが暑いです。船の中はクーラーをガンガン効かして、やっぱり寒いです。海は凪であります。明日はガダルカナル島のホニアラに着きます。
ホニアラはソロモン諸島共和国の首都であります。
上陸に前もって、太平洋戦争をおさらいします。
1942年11月、太平洋戦争、ミクロネシア戦線、ガダルカナル島では36000人の将兵をこの島に上陸させた。米軍の激しい戦いで補給船、航空機は多数沈没破壊。米軍側は初めて海兵隊を導入した。飛行場の占領の戦いで、私たちが入港するホニアラの湾は「アイアンボトムサウンド」と言われるほど残骸が眠っている。そして、将兵たちの補給船が消滅したことで、24000人が戦病死「餓死」した。この島のことを「餓島」という。そしてある人は言う。「ガダルカナルは帝国陸軍の墓地である」と。
大本営は計画性のない戦争に突入した。真珠湾攻撃である。当初から日清、日露の時のような「仲介」を期待していた。昭和初期、極東の小さな島国である日本は列強に振り回され、「調停」を期待しながら日本も太平洋戦争に進んだ。「調停」の甘い汁は日露戦争に遡る。軍事費が完全になくなっていた時に偶然、ロシア革命による戦争遂行の厭世気分でアメリカの調停により、日本は戦勝国になった。その調子で太平洋戦争を始めた。山本五十六でさえ戦争を反対していたが、調停もいつまでも期待した。日本海軍は日露戦争時の日本海会戦を夢見て、洋上決戦、巨艦決戦を試みるが、アメリカはレーダーを開発、目で見えなくても攻撃でき、それも航空機主力戦となった。そして島伝い作戦で、東京空襲、沖縄戦と続いた。
無責任な戦争遂行、計画性が欠如した作戦。そして責任者不在の組織。これが未曾有の戦争に突入させた。
その、ガダルカナル、ホニアラを心に手を合わせ、しっかりと歩いてみようも思います。

 

2/20 火曜日

2/20 火曜日
今までのワイファイはヌメアて使えなくなり、あと横浜までは衛星通信を使ってプログ、ネットにつないでいくことになります。
もう、帰国まで二週間を切っています。もう少しだと思うのですが、ヌメアから成田空港まで直行便があるようで帰国する人がいました。かのセレで二人組みの女性の一人が不眠でどうにもならないとのこと。残念です。周りの人に聞くと、やはり帰りたいという人もいれば、帰ったら家はいこごちが悪いので、このままずっと乗っていたいという人もいます。
そろそろ飽きてきたという人が大半です。メインのオセアニアは終わりましたからね。明後日22日はガダルカナル、そして24日はサイパンです。
乗っている、同世代のひとにはプロジェクトXも太平戦争も時代錯誤だと言います。
今は狭い島国で、どうのこうのというより、世界の中の一部なのだから日本を意識しないほうがいい、とか何を大昔のことを掘り返して気分が悪くなるできごと思い出したくないとか。
ナショナリズムとグローバリズムのバランが大切だと思います。また侵略国家に仲間入りしようと、大国に拒否されたこと、そして関わった国々の人々がたくさんの同胞とともに亡くなつだこと、などとりあげると無関心では入られません。
今日はブリッジ見学会がありました。10人毎に30分の元船長と紹介された方から説明を受けました。
船の横方向の端から端までが奥行き10メートルくらいの部屋が船をコントロールする「ブリッジ」と言われているところです。海図は一切なく、自動運転と衛星通信で動いているとのこと。当直は最低二人、多分全員パナマ人かもしれません。(船籍がパナマ)航海士は6名。船長はほとんどブリッジに上がってこないと言います。
このブリッジに上がると進路方向はすべて見渡せます。特に端によるとスカイタワーの足元が抜けて行くような気分になります。
見学者から海賊に襲われたことがあるのかとか、銃器はあるのかと質問がありました。二回体験した、機関銃撃ち込まれ追いつかれれば終わりと思いスピードあげて逃げたとか。船の中には銃器は一切ない、戦うと不利な立場になるからと言います。現代は各国の保安部隊が船を守っているそうです。
他にも安全施設、避難船の話があり、37年経っているが使ったことないとも。頼もしい話です。後10日間安心して船旅を楽しみます。

2/19

2/1 ニューカレドニア、ヌメアに着岸。この島はフランス領で、天国に一番近い島で有名です。小さな町だと思っていましたが、なかなか大きくて、施設もたくさんあります。ただwifeが繋がりません。あとで気がついたのですが到着ビルではフリーwifeが使えたそうな。この日はチュチュトレインという電車型バスに乗って市内観光する予定がもっと安くて、日本人がたくさん申し込んでいた観光バスで3時間の市内観光です。月曜日は休みだけれど、このバスは入場できました。大きな敷地です。
ちなみにオーストラリアもニュージーランドもそうてすが、閉店時間が5時頃です。中に人がいるのにカギがかかってしまいます。そしてその頃は帰宅ラッシュでバスも電車も道路も混雑しています。彼らはアフターファイブを楽しみます。レストランでビールを飲む人や食事を楽しむ人がたくさんいます。飲食店は10時頃までやっています。
話しをヌメアに戻します。quin toroというお台場には大砲が2基、海に向かって備え付けられています。太平洋戦争の時の前線だったのでしょう。場所は変わりますが教会も質素だけれどもありました。小さくてもゴシック調の建物です。
バスは景色のいいところで止めてくれます。海にはヨットかレジャーボートがどこでも見れます。日差しは強く、今まで寒さ対策ばかり、していたのですが、さすがここは南太平洋。