台湾の合宿に参加する

私が所属する総合ヨガ協会は台湾の沖道ヨガ会と互いに合宿などで交流をしています。台湾のヨガ会の活動は27年を経て、会として大先輩ですが創業者の方々が高齢になり、若返りをはかって順調に来ていますが日本のヨガ協会はまだその途中です。
今回も2年ぶりに秋季営という合宿に参加しました。千歳から台北へ直行便があり4時間のフライトで中華民国台湾に到着しました。桃園国際空港は辛亥革命から建国100年のお祭りで華僑が世界中から帰国をしているので混雑しています。迎えの頼さんは心配そうに入国待合室で待っていてくれました。4車線のハイウェーを一路、台北市に向かいます。左右では新たな高速道路なのかモノレールなのか工事があちらこちらで行われています。
翌日、日月譚(にちげつたん)という観光、リゾートの名所に大型バスで向かうのですがそのお祭りで高速道路は渋滞です。バスの中からは日本によく似た風景を4時間かけて目的地に向かうのですが風光明媚な湖は少し見ただけで、合宿所に吸い込まれました。
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2泊3日の合宿は日本人8人含めて100人以上の参加者でした。台湾の参加者の特徴は若い人が多いこと、体が柔らかいこと、よく笑うこと、規律正しいことでした。前の理事長は仏教に詳しくその哲学を説きましたが今回は哲学的な講義はなく、私たち日本人3名が所々で沖ヨガの考え方を披露しました。80分の授業ですが通訳を入れていますので実質40分で少ない時間です。
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私は3講座担当させていただきました。そのうちの一つを簡単に紹介したいと思います。
台湾と北海道に関係する話しを私のエピソードとして紹介しました。まず20歳の頃、私は探検部に所属していました。今もそうですが探検部は学術探検が主でした。(私は無人島調査というより踏破だけだったのですが)当時は過疎地に向かって古老の話を聞いて生活や文化を聞き出しレポートにするのです。京都比良山の西麓の朽木村や島根県の某地などで活動しました。そしてあるグループは大きな計画を立て、台湾の高砂族、中でもアミ族の文化人類学的な調査しました。(当時のキャプテンは今博物館の偉い人になっています。)古老の話しも高砂族の人たちも今は文化的な生活をしているかもしれませんが50年100年前の生活を知ることは知恵を出してたくましく生きることが生活だったと思います。彼らは私たちの一番身近な祖先です。同じように北海道にもアイヌ民族がいますし130年くらい前から倭人の進出が多くなりました。彼らは冬の寒さを克服するために想像を絶する生活をしていたと思います。食料がない、熊の出没、バッタの大群などで農作物が全滅など初期の開拓は大変だったと聞いています。これは台湾、北海道だけでなく世界中がそうでした。なにも生命強化法などという言葉を使わなくても生活がそうだったのです。そのパワーが私たちにもあることを知りましょうといった具合です。
現理事長の張さんは筋肉もりもりでいてアサナがきれいです。それは努力の賜物です。毎朝4時から2時間のアサナ練習をしています。今回も同行者5人くらいが行っていましたが私は見学だけさせていただきました。
台湾の夜明けは遅く5時頃で真っ暗です。
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台湾はさすが暑く、部屋の中はどこもクーラが効いています。それで台湾の皆さんは長袖のシャツは必携みたいです。食事はパイナップルやトマトがスープの中に入っていたりしていましたがヨガ関係者ということでベジタリアン食でした。野菜、青物が多く何でも食料にできるようです。
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あっという間に合宿が終わり、一人桃園市内のホテルに入り大きなダブルベッドでご満悦です。シャワーから解放され湯船にも久しぶりに入りました。近くのセブンイレブンに入ったのですが商品は当たり前ですが日本の商品はどこにも見当たりません。おにぎりもシンプルなのはありませんでした。しかし日本語通じたのはうれしかった。すごいと思いました。結構日本語を話しする人がいるのです。翌日また頼さんに迎えにきてもらい彼女の新しいスタジオ、道場を見せてもらいました。彼女は今もヨガ会の役員であり、前まで事務局長として能力の高い人でした。その彼女が独立するというのです。がんばってほしいと思います。空港では彼女にハグされ、これからも縁ができそうな台湾にひとまずさよならです。

珍しい果物がありました。名前のわからないものがあります。
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Taiwan6 これは龍眼という果物と柿ですが柿は渋抜きで皮がめちゃくちゃ薄いです。 Taiwan4

薄荷工場見学

北見へ連休中に行きました。時間があったのであちこちと見学をしましたが、圧巻はここで紹介する薄荷工場とピアソン記念館です。どちらもヨガの「生命即神」でいう昔の人の生きるエネルギーが込められています。そして日本の大きな歴史から忘れられた存在でもたくましく生きてきたあかしがここにありました。
まず、薄荷工場についてですが今の読み名はハッカ工場でしょう。工場記念館の係の人は丁寧にたくさん教えてくれました。そして又この小さな記念館に見学者が多かったことも驚きました。
昭和15年頃から今も北海道の大企業のホクレンが北見にはっか工場を作り、戦後間もなくはっかは世界需要の70%を作付けしていたと言います。そして戦後間もなく天皇、しばらくして皇太子(現天皇)が見学に訪れているほど盛況だったのでしょう。ところが貿易自由化や合成品のメントルがあらわれると急速に衰え昭和末期には工場は閉鎖されました。
係の人は外国産のハッカは結晶ができないが日本産は水晶のようなハッカ脳と言われる針状の結晶ができるのが特色だとのことです。この針を食べてみなさいといわれ口に含むと胃腸薬を飲んだみたいにお腹がすうすうします。ハッカの使い道は薬品食品だけでなく、防虫や化粧品タバコやお菓子などたくさんの用途があります。今は当然、原料はメントールです。
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以前にアロマを勉強していたときに植物から抽出される芳香成分は合成品では作れない素晴らしい成分があると教わりましたが、製造単価だけを考えると企業製品は合成物にいくのでしょう。
このハッカを作る農家の数も莫大な土地でこの地方を潤わしたと言います。
写真で見ると農家毎が中間の生成物を作る化学工場のようなものでありました。昔の人はこのように手間ひまをかけて物を作っていたのです。
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北見の土産物店にあるハッカのお土産はほとんど北見では作っていないしまた合成品であると言います。私は工場で北見産のシソから作った本物のハッカを購入しました。そして針状のハッカ脳は車にティッシュに包んで芳香剤にしています。
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楽園に一番近い島 竹富島

40年前に行けなかった島が竹富島です。そして姪は竹富町に住んで10年になり、もう立派な島の町民です。彼女の結婚式には家族が参加しました。コンドイビーチの沖から八重山の民族衣装を着て岸に寄せて神々に奉納するという儀式でした。その儀式も夜の9時頃から行われるというのも画期的です。島民、友人、親戚が岸辺に集まってお祝いをします。歌手のbiginも来ていたということです。
さて今回は別の姪が今度は石垣市で結婚式を挙げることになりました。その前に竹富観光です。朝早く私たち親族は起きて家の周りの道路の掃除です。道路は砂と,サンゴです。枯れ葉などのゴミを取り、あとはお寺の庭のごとく砂をきれいにほうき目を入れます。なかなか難しいのです。これらは島の人たちは習慣になっており、子供が率先して行うらしいのです。自分たちの島を大切にして、そして観光客が気持ち良く来られるようにというおもてなしも含んでいるということです。
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屋根にはお守りのシーサーがあります。この八重山の島々には伝統を大事にする催しがたくさんあります。一年中なにがしの奉納があり、その中でも「種子取祭」は10日間にわたって神事が行われ、そして奉納芸能も行われます。観光客もこの時期は大勢くるということです。
この島の人口は350人で、決して過疎が進んでいるわけではありません。本土からたくさんの女性が嫁いでいるからです。姪も同様です。姪はいつの間にか結婚しそして島の催しのために忙しい毎日を過ごし、北海道に帰ってきたのは10年の間に1回位しかないのです。自分の居場所を確実に得ていると思いました。それに比べて、都会に住む私たちは郷土愛という言葉さえ知らずに、浮き草のごとく、どこにも居られない不安を抱えています。そして自分は何者であるかも知らず、ただ押し寄せる不安からせっせと物とお金を集めています。
快適を知ってしまった私たちは島民と同じように島の生活をすることはできません。夜の外出は懐中電灯が必携です。ハブがいるからです。コンビニもありません。駐在所もありません。何もないのですが島の人たちが島をただ守る、郷土愛に徹するという一念が観光産業を活発にしました。私たちはその島に訪れて、何もないものにあこがれ、神から守られたり神を守る神事などで無力の自分に気がつき、そして癒されていくのだと思いました。竹富観光のパンフレットに「楽園に一番近い島」とあるのは自然の恵み、生かされていることを感じ、生きるに十分なエネルギーを吸収できる環境だからでしょうか。
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しかし自然の中にいる島民の方たちは決して不便な生活をしているわけではありません。竹富島も石垣島から電気水道を引っ張りるくらいの距離ですから高速艇で10分の距離です。中には石垣市にマンションや車を得ている人もいると聞きました。無と有をうまくバランスしています。私は文化遺産を持っている島の観光にもともっと浸りたいと思いました。

幕張で合宿

 今回の合宿は震災の影響を大きく受け、開催を危ぶまれましたが、規模こそ例年ではありませんが、100名を超える方々の参加いただき、内容の充実した研修を行いました。
台湾からも新理事長 張延梃先生、元理事長 楊増江先生他3名が参加をされました。
 今回東京近辺で行うことでもあり、はじめて沖ヨガに接する参加者もありましたので沖ヨガ道場を意識したカリキュラムがいくつかありました。
 三好先生の強化法では道場の一日の流れの中でこの行法の意味、精神性などの説明として生命力を高める具体的行法であるとして実習で汗を流しました。インドヨガと根本的に異なる総合ヨガとしての特色はこの強化法が代表的なものでした。
 大阪枚方市で「かたの健康会館」を主宰されている珠数先生は今協会の役員をしている団塊の世代の一回り上の先輩です。日本で行われた’79国際総合ヨガ世界大会(1ヶ月間50カ国15,000人参加)の実行委員長でもありました。今回はメイン講師の一人として、修正体操の基礎から学びました。先生の最近出された「心も体も楽になる」の著作を例に出しながら、心の癖、体の癖を意識的に修正することの大切さを説かれました。
 張延梃先生のアサナは独自にアサナの訓練をされ、アクロバティックなポーズが続きましたが、それは10年を超える毎朝2時間のアサナ訓練の賜物です。そのアサナからは瞑想的な雰囲気があり、単なる体操ではないことがはっきり見受けられます。私たち受講生には張式太陽礼拝体操を行いました。日本人で先生のところで定期的に修行をされている武藤さんという女性がデモンストレーションなどしてくれました。あとで彼女と話すと先生のアサナはひとつひとつがとても長いとのことでした。これも心を大切にしている訓練法と理解しました。(カメラ故障のため写真なし)
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 さて今、物にあふれている家の中で片付けをテーマにした「断捨離」がベストセラーになっています。その著者のやましたひでこさんの二日にわたり4時間の講演です。やましたさんは元沖ヨガ修道場の外部教室ヨガアシスタントでした。結婚してヨガをやめ主婦をしているときに沖先生のヨガの喜びの中にある「断捨離」が−こころと同じように家の片付けができるといいね−と言ったとたんにひらめいて、物の断捨離をテーマに講習会を始めたそうです。やましたさんの講義は沖先生の心の講義同じでした。今を大切にする、いつか役立つかもしれない物は雑念でいらない物です。退出してもらいましょう。そして人の心配をするよりも今の自分が輝いていますかを説明されました。物に例えれば高かった物や人にもらったもの、全く見向きしないもの、これも退出してもらいましょう。そして沖ヨガ特有の「治さない治しかた、教えない教えかた」と同じように「片付けない片付けかた」は心がそのようになると努力しなくても片付いてしまうのですと説かれました。
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 龍村先生の断捨離行法の講演は沖先生の修行時代の話しやこの断捨離の言葉をはじめて知ったのは「ヨガ行法哲学」の中で心身が麻痺しないように慣れてしまっていることを断つのだという箇所であったと断食断心を例に出して説明されました。また今やミリオンセラーの続いている「ヨガの喜び」は沖先生の原稿を龍村先生が2日間のホテル缶詰で出来上がった本であることを話されました。やました先生とのアシスタント時代の思い出や沖先生の言動が一見非合理に見えることが深い愛であり、理解できない人は不満を抱き、あとになって気がつかせる能力は沖先生のとらわれていない断心の無執着の実践なのだと述べられました。

北海道のロマン

 知人から「骨鬼(くい)の末裔」という本を借りて読んだ。面白くて再度読み返す予定であったところ、教室で山好きのKさんにその話しをしたところ、読みたいと熱望された。その場には所有者の知人も同席し、そんなに面白かったら「あげましょう」と言われ、Kさんに渡したのだが、それからヨガの授業は著者の「新谷暁生」の雑談で時間を大幅に遅れてしまった。著者と懇意にしているという又別の人Iさんがいて著者の豪快さとカヤック、ニセコ、知床談義が始まり、話がつきそうもない。
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 そして本の内容に及ぶと又別のSさんがすごい、すごいと言って授業に戻れなくなってしまった。何がすごいというと13世紀末に中国のチンギスハンの流れを汲む元朝(げんちょう)の元冦(げんこう)が九州を襲ってこれが原因で鎌倉幕府が衰退するが同時にその頃、北のオホーツク千島を拠点とする民族が中国大陸のアムール川付近を侵略し元(げん)の人々に骨鬼(くい)と呼ばれて恐れられていたという話しが気に入ったというのだ。日本は元にやられっぱなしではなかったのだと大喜びしていた。
 この本はニセコの雪崩事故防止方法の画期的なニセコ協定から知床の国による環境保護がかえって環境破壊につながっていくという自然観そして山で事故を起こしてはならない、北方民族の盛衰、アリュウシャンの民族、松前藩のアイヌを酷使した愚政策、差別はまた同時に日本人から差別されしまうシャモ(鶏ではない)の話し、アイヌとカイいう民族、北海道の開拓に大きな足跡を作った松浦武四郎・・・このように多岐にわたる内容は「新谷暁生」の人物の魅力そのものである。
 数年前に網走に行ったときに1,000年以上前のモヨロ遺跡があるということでタクシーに乗って行った。土を盛った竪穴住居みたいであった。そのときオホーツクのたくましい民族のことが印象的であった。(2006年10月31日モヨロ遺跡 当ブログ参照)そのことも思い出した。
 幕末のころ青森にあった松前藩のアイヌ差別、搾取や移住禁止などで統治能力がないことから幕府が蝦夷地を開拓に乗り出した。そのころから日本各地から本州から移住が盛んになり今の町や街が生まれてきたがそのためには蝦夷地を探査する必要があった。松浦武四郎は三重の松阪出身者で探検家、冒険家であった。はじめは個人的好奇心で松前藩の妨害を受けながら蝦夷地旅行であったが幕府から調査を命じられ、アイヌの人たちの協力を得ながら探検に成功した。彼はアイヌ民族の文化を保存して現在の北海道の地名などを命名している。
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 たとえば札幌はアイヌ語の「サッポロベツ」(乾いた大きな川)であったり知床は「シリエトゥク」(ちのはて)など、ほかにもそのままにアイヌの言葉を漢字に当てたりカタカナにしたりしている。そしてまた北海道に現在12支庁に行政区が分かれているがこれも松浦が民族や地勢の違いを調べ上げた区別した結果をそのまま使っているそうだ。
 そういったことから松浦武四郎は北海道の開拓者であり名付け親でもある。彼の銅像は北海道内に50カ所以上に及ぶ。又名もない小さな町にも彼の銅像は建っているということだ。松浦は初め北海道を北加伊道と呼んでいた。それはこの大きな大地に数種類の民族がいることがわかり、オホーツクなど北の方はカイと呼ばれる人々がいた。著者の新谷はカイとクイ(骨鬼)には関連づける文献はないとしているが、言葉の音からから想像してしまう。明治政府は北加伊道を東海道などと関連づけて海という字に変えて今の「北海道」にしたそうである。
 松浦武四郎、わたしも北海道で生かさせていただいて40年近くたつが何回もいろいろな所で銅像を見てきたが、そんな偉大な方とはつゆ知らず大変失礼なことをしてしまった。彼は明治政府になって開拓史となって送り込まれた役人と意見が合わず、元の三重、松阪に戻り、故郷の大台ケ原の探査探検にエネルギーを注いだという。
 そういえば若い頃、台高山脈縦走(大台ケ原—高見山)をしたことがあるがそれは大変なきつい山行であった。台高山脈は三重県と奈良県を分ける標高1600メートル前後の山であるが上ったり下りたりの往復40キロを一日で走破したことを覚えている。当時はベースを途中においてほとんど空身で走るがごとく、ただ登ったという行動であった。ばてるものが続出し雨が降ってくる、動けない者どうするか、野営の準備もない。新谷暁生は山で絶対遭難してはいけないというがほとんど遭難しそうであった。私はというと偶然ポケットにカンロ飴(今でもある、あのまるっこいの)を食べていたからばてなかったのだろうと懐かしい思い出である。
 遠い昔は征夷大将軍という官職で東国を支配する武将(坂上、源、徳川)がいた。榎本武揚が率いる「蝦夷共和国」の夢もあった。蝦夷地から北海道へ。今北海道は都会と自然が調和をとっているすばらしい土地である。これからも震災も含めて大きなうねりがあるかもしれないが日本国が北を頭にして、東京大阪を手足として発展する日がくるかもしれない。 

講習会風景

所属している国際総合ヨガ協会北海道連合会の研修風景です。普段、教室で写真を撮ることは皆無ですが、会の研修の際には専属の優秀なカメラマンがいます。
「体が硬い人のために」出版本と同名のタイトルで講習会をしました。稲穂のポーズを作る時、どうしたら楽に作れるか、力を抜くことが大事だけれど抜けないときはサポートしてあげると楽にできるよという写真です。背中に密着して後ろに倒れないようにする。胸が閉じないように、腕を広げるように保つ。頭が垂れないように手で支える。そして胴体の重さで沈めていく。また呼吸の運動で膨らむ、しぼむを実感する。そのようなプロセスを経て体が自然にくつろいでいくのです。そんなことを説明する一コマです。
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追伸:専属のカメラマンといっても専業ではありません。会の広報部長を担当しています。彼とは長い付き合いです。1年くらいヨガでは先輩です。先日、彼から30年以上前の昔話を聞きましたが私はすっかり忘れていました。その昔話とはまだ私がレッスンに慣れないものですから、彼のクラスを見学に体育館へ行ったときの話しです。講師の彼は受講生が集まっているのにさっぱり現れません。受講生は時間なので整列して待っているのです。仕方なく新米の私が急遽、代行レッスンをすることになったのです。彼は1時間くらい遅れてきました。一言、忘れてた、です。まあ、そんな人柄のためか人気があるのです、私はそれから、ながーいおつきあいをさせていただいています。

静岡県三島市日帰り出張

日帰り出張をしました。今回の出張は遠いというより、本州は暑い!という印象でした。この前日は沖正弘導師が亡くなって25周年の法要が営まれました。不肖の弟子で法要に参加できなくその後に続く理事会のみ参加した次第です。札幌の自宅を6時頃に出かけ、羽田を経て、新幹線で三島入りです。
この三島も何年ぶりでしょう。懐かしい風景とすっかり街になった景色が頭の中でまだらになっています。沖導師の活躍した道場は今は更地になっています。その更地の小さいことに驚きです。ここには世界各国から、日本中から修行生が200人も集まっていたのです。3階建ての道場で缶詰状態で瞑想、強化法、講義等明け暮れていました。道場の前には小さな川だけれど、せせらぎの音がいつもしていました。川の流れを見たり聞いたりすると何か落ち着くのはそのせいかも知れません。川向こうには道場を解体した後、断食セミナー等をしている建物があり、沖導師の遺品や写真が保管されています。
暑い日中の中、懐かしい人たちと挨拶しますが、顔は暑さで真っ赤です。部屋に入ればクーラーがフル稼働で少しは涼しくなりますが、話しに熱が入るとクーラがないのと同じなります。本州の人たちのものすごい忍耐力に驚きます。この暑さは平気なのと何回も人を変えて聞きますが、やっぱり暑いそうです。会議に参加した皆さんは昨日も暑かったのです。今日も明日も。この暑さは8月末まで続くでしょう。私は今日、札幌に帰ります。夜の気温は18度と伝えていました。
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水天宮って

東京地下鉄の駅名です。はじめは単にそう思っていました。東京に出かけるとき、泊るホテルへいくときは茅場町を利用していました。地理感覚は全くなく、夜にホテルに入る時、200メートルの距離をタクシーを使ったこともあります。最近利用する地下鉄を変えてみました。水天宮という駅の利用です。何回か使っていて、水天宮という社(やしろ)が見え、好奇心で中に入っていくと子供連れの家族が多いのに驚きました。なんと子宝に恵まれますようとか安産を願う御宮さんだったのです。調べてみたらこのたぐいの御宮さんは全国にありました。子供連れが多いのはそのお礼なのかもしれません。こま犬の人形がたくさん飾っていました。このような風景を見ると何か昔ながら神を信じ、神を祈る姿勢に心うたれます。そういえば京都にある北野神社は受験生がわらをもつかむ気持ちでお参りするところでした。今週の学院のカリキュラムは「月の礼拝」です。単なる連続ポーズですが生きる日常から祈りを主とする生かされていることを実感するひとときです。
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明日に向かって

過日の新千歳空港です。日が昇る前に家を出て空港でご来光でした。この日は冬至の翌日で7時半頃、北海道の冬は太陽が北の方をかすめて移動しているのです。いや地球が動いているのでした。この日から陽は一日1日長くなっていくのです。待ちどおしい春に向かってどんなに寒くても春は来るのです。この飛行機は世間で今、話題になっています。どこに着陸するのか、早く春が来ると良いですね。
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この日は搭乗飛行機の非常用ドアのランプが出発前の点検で点かないことがわかり機内で待機です。整備士が作業の出入りで忙しそうでした。そして私も会議にこの時間分、しっかりと遅刻しました。
もうすぐお正月。この年になっても、なにかうれしいね。家にいることが多いので、粗大ゴミ扱いされるのですが、なにもない、自由、何でもできると思ったらうきうきします。あ〜何もないというのは不自由じゃなかった。「無」なんだ、自由なんだ。これは般若心経にありました。
お正月が終わったら結局、例年のことですが本当に何もしていないのです。しかし来年への希望は思うままに描けるのはうれしいことです。無なんだから無のありがたさをしみじみとかみしめるために般若心経を大晦日にあげます。その日は祖父の命日です。ご先祖様がいて自分がいるのです。だから、明日に向かってがんばろー。

LA shopping

今日は最後の日です。またまたMさんのお世話になります。まず何はもとあれ郊外のアウトレットを目指します。車で2時間くらいのところ。なんでも車なのです。フリーウェーの高速でどこでも行くのです。サンフランシスコに9時間かけて出かけるとのこと。このサンフランシスコははLAに比べて小さい町だとのこと。でも77万人です。LAは370万だから名古屋市くらいでしょうか。フリーウェは120キロのスピードで6車線。右から左から追越をかけてきてよくも事故がないものです。

  http://www.premiumoutlets.com/outlets/outlet.asp?id=20

アウトレットのお店は160のお店があって迷子になりそうです。またまた女性群と分かれて単独行動です。彼女たちはコーチのお店へ行きます。男の自分が言うのも変だが安い。なぜなら価値がわかっていないからです。後で空港の免税店で見て驚きました。数十万なんてざら。その30%くらいで数千円単位です。失礼!数十ドル単位です。きっとバイヤさんでしょうか、大きな袋の中に商品を片っ端から入れていく人がいました。

ところでこのLAの街はこの乾燥地帯なのに緑の樹木や禿山が目立ちます。聞いてみるとほとんどがスプリンクラーで給水しているそうです。日本であれば川があるところに町ができるのですが、こちらはまずメキシコ人の布教活動の拠点としての町なのです。カトリックでしょうね。そのくらい信仰というものに力が入っていたのです。お買い物も一段落過ぎ、今度はヨガ教室です。前もって調べておいてもらったところです。

  http://www.theyogacenter.com/

Mさんは用事がある、後で迎えに来るといって教室に私だけ下ろして出かけてしまいました。さぁ、大変です。クラスが始まりましたが、何がなんだか言葉がわかりません。しかし私もヨガを少しかじっています。カパラバーティ、ナディショダナーらしい言葉がでてきました。それからイクヘロ、インヘロです。(当然、吐いて、吸ってです。)先生はきれいなアメリカ人です。えっと思ったのは一回だけやり方を教えて後は勝手にどうぞといった具合です。そしてずーっとイクヘロ、インヘロだけを繰り返します。何が何だかわかりません。となりにおじさんがいてその人を見ながら汗びっしょりです。でもそんなにきつくありません。スリヤナマスカーラ太陽礼拝のような動きでした。あとでMさんの通訳が入ってわかったのは呼吸をコントロールすることで生き方や人生を変えることができるというのです。このイクヘロ、インヘロで90分がたちました。でもなんとなく参考になったことはたくさんありました。教室でいつか披露しますね。当然水野式ですが。

泊まったホテルから見るダウンタウンはビル群がニョキニョキですがこれを郊外から見るとその一角だけが平原から急にビルがそびえたつ文明都市のようです。そういえばハリウッドの話をしていませんが、このLA市内でニューヨーク風やシカゴ風サンフランシスコ風に映画を撮るそうです。アメリカ映画見るときには気をつけようっと。

いよいよLAからさよならです。たくさんの人にお世話になりました。英語ができなかったのは残念でした。おそばを食べに行ったところではきれいな日本語を話しできる二世がいました。彼は大学を出て料理を専攻しているうちに音楽に目覚めてそちらの勉強をいましているといいます。又彼は近くのサンタモニカのストリートでダンスも踊っていたという現代若者です。人生はまだまだ続くのです、がんばってね。